第一回芥川龍之介賞・直木三十五賞決定発表 1935年、昭和10年9月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988
メモ 2020年9月10日(木)
この時代は新人作家の野心作が少ないと選考委員の大佛次郎は言う。精神の萎縮を反映しているのだろうか。「才能の点は別としても、野心だけでも今の新人は既成の人たちよりはるかに下位にある。」273
これと関連して労働者階級の作家に新鮮味を見い出している人(川端康成)もいる。「渡辺氏と浅井氏は労働者の中より新しく生まれてきた。プロレタリア文学としてその素材にも作者の生活にも、よい感動が溢れ胸打たれた。種々の意味で低迷せる芸術派の新人には、見られぬものである。」269
この芥川賞や直木賞の選考評を読んでいて、当時の時代の異常さを指摘する言葉を一言も見つけることができなかった。お偉い評者たちが浮世離れしていたのだろうか。それともあえて言及を避けたのだろうか。
大佛次郎が中国など戦地に出向いたり、川端康成が文芸懇話会の会員になったり、この時代の偉い人は何らかの形で自己中的国家観に協力させられ、自らもすすんで協力する経験を通過しなければならなかったのか。しかし大佛次郎は戦後は「パリ燃ゆ」などを書いている。反省があったのだろうか。
ウイキペディアより
大佛(おさらぎ)次郎 本名は野尻清彦 1897.10.9—1973.4.30
1912年、一高の仏法科入学。
東京帝国大学法学部政治学科に入学。東大教授吉野作造が右翼団体の浪人会と対決した「浪人会事件」で吉野を応援した。
1921年、東京帝国大学を卒業。
1921年から1923年まで、鎌倉高等女学校で国語と歴史の教師。
1922年、外務省条約局嘱託となり、翻訳の仕事に就く。
1927年、東京日日新聞連載の『赤穂浪士』で、虚無的な剣客堀田隼人という架空の人物の目を通して、元禄時代や執筆当時の世相と体制を批判的に描いた。
1930年、ノンフィクション『ドレヒュス事件』を発表。「軍部が独裁的傾向を示し始めたのに微弱ながら抵抗する隠れた意図」があったと述べている。
「自分は甘いヒューマニストだったが、ニコライ2世暗殺を企てたエヴノ・アゼフのような怪物が人間の中から出るのを知って驚き、この怪物を出生させた社会的条件に注意し、日本がひどくそれに類似しているのを知った。しかし、既にそういう作品を発表できる時代ではなくなっていた。」と述べている。これは1946年に、『朝日評論』に「地霊」として連載された。
1933年、「詩人」で、ロシアのテロリスト・カリャーエフによるセルゲイ大公暗殺事件を描き、日本におけるテロリズム批判の姿勢を示したが、検閲により大幅に削除されて『改造』に掲載された。
1933年から1934年、『時事新報』に「安政の大獄」を連載。当時の小林多喜二獄死や滝川事件などの言論弾圧への抗議の意味を込めた。
1938年、日本文学振興会評議員。
1940年、文芸春秋報道班員として中国宜昌戦線に赴き、また、文芸銃後運動講師として満洲、朝鮮に渡る。
1942年、大政翼賛会支部の鎌倉文化聯盟の文学部長に、久米正雄の依頼により就任。
1943年末から44年初めまで、同盟通信社の嘱託としてマレー、スマトラなどを訪問。その後『少年倶楽部』連載の『楠木正成』の執筆を続けた。
1945年8月19日、玉音放送の感想「英霊に詫びる」の第一回を朝日新聞に掲載。次いで東久邇宮内閣に招聘され、「新文明建設」という役割を与えられ、治安維持法の廃止、世論調査所の設置、スポーツ振興などを提言したが、内閣が1ヶ月半で総辞職した。
1961年、フランスに渡りパリ・コンミューン調査を行い、『パリ燃ゆ』執筆開始。
1962年、第1回科学者京都会議に出席し、湯川秀樹らと核実験停止、軍縮、平和運動に加わった。
1967年、朝日新聞に『天皇の世紀』連載開始。
1978年、1944年から1945年10月までの日記が『敗戦日記』として刊行された。
川端康成 1899.6.14—1972.4.16
幼少の頃から両親に先立たれ、不遇な人生だった。父死亡1901、母死亡、姉と別離1902、祖母死亡1906、姉死亡1909、祖父死亡1914
1917年9月、第一高等学校文科第一部乙類(英文科)入学。名誉心から。
1920年9月、東京帝国大学文学部英文学科入学。
1922年6月、国文学科へ移籍。英文学科では出席が厳しかったため。
1924年3月、同学科卒。
菅忠雄家のお手伝い松林秀子と知り合い1925、その後同棲し1926、妻とする。1931
1927年ころ、プロレタリア文学が隆盛したが、川端は距離感を持っていた。
1929年ころ、左翼文学を嫌う気持ちを公表。
1930年ころ、社会不安。ジョイスの新心理主義が流行して、川端も採用。
1931年4月、書生緑川貢を置く。西洋のバレエに関心を持つ。このころ川端は有名になっていた。最初結婚の約束をしたが、その後反故にされた伊藤初代から、その長女珠江(9歳)を養女に取ってくれるように依頼されたが、拒絶した。
1933年、小林多喜二が殺され、プロレタリア文学は壊滅した。
1934年1月、文芸懇話会が結成され、会員になったが、出席してみると、これは元警保局長・松本学主宰で作られたもので、「謙虚に辞退すべきであった」とも思うが、思うに任せなかったようだ。
ハンセン氏病の北條民雄の原稿を受け取り文通をするなど、新人を発掘。
1936年、ハンセン氏病の北條民雄の「いのちの初夜」を推薦する。
1937年、「文芸懇話会賞」を受賞し、軽井沢に別荘を購入。北条民雄がハンセン氏病で23歳で没。ゴルフに興じる。
1938年、「日本文学振興会」理事に就任。菊池寛が理事長。
1939年、若い女性向けの『新女苑』に投稿欄「コント選評」を始める。
1940年、「日本文学者会」を設立する時の発起人となった。
1941年、関東軍の要請で満洲を再度訪問。妻秀子曰く「主人は、軍部を抑え切れないで勝つ見込みもない戦争に巻き込まれてしまった、と慨嘆していました。」秀子1983, p. 144
1942年、「日本文学報国会」の派遣作家となり、長野県の農家を訪問した。開戦記念日に開始された、戦没兵士の遺文を読んで感想を書く連載「英霊の遺文」を担当し、戦争や英霊を賛美した。
『日本評論』に「夕日」を発表。
1943年、『細雪』や源氏物語が発禁処分。多くの文学者が陸海軍の報道班員に組み込まれ、自由主義作家を摘発する作家もいた。
1944年、収入がなくなり軽井沢の別荘を売却。「日本文学振興会」が制定した戦記文学賞の選者となる。
1945年4月、志賀直哉の推薦で、国民の戦意高揚のための海軍報道班員(少佐待遇)となり、鹿児島県鹿屋に赴き特別攻撃隊神雷部隊を取材し、それを称賛した。戦後「特攻隊について一行も報道は書かなかった」と語っているが(「敗戦のころ」新潮1955年8月号)、特攻兵器桜花や特攻を賞賛する談話を朝日新聞1945.6.1に寄せている。
また、鹿屋で特攻出撃のために待機していた中央大学法学部出身の杉山幸照予備少尉によれば、杉山ら学徒出陣で予備士官となった大学出身の特攻隊員と懇談した際、川端は特攻の非人道的暴挙を非難し同情を寄せたが、第五航空艦隊の上層部と話す時は笑いながら特攻を賛美する話をした。
杉山は「彼ほど小心で卑屈な人間を見たことがない」「偉大な作家であっただけに、その狡猾な言動を快く感じていなかった」とし、他の特攻隊員も不信を抱いていたという。さらに川端は神国日本を信じて、やがて神風が連合艦隊を全滅させる、という過去の歴史の繰り返しを期待する幼稚な思想を特攻隊員と共有していたと杉山は回想している。(杉山1979, pp. 190-191)
川端はノーベル賞も貰いたく、三島由紀夫に推薦文を書いて貰った。1961.5
川端康成は、自己、家族、日本など狭い範囲にこだわり、視野が狭い。マルクス主義からは距離を置いていた。三島が川端を重視するのも頷ける。
巧言令色少なし仁
川端康成は、軍部に国民の戦意高揚のための報道を依頼されて鹿屋特攻隊基地を訪れたとき、特攻隊員には同情する反面、上層部に対しては特攻を賛美しながら歓談するのを特攻隊員に聞かれ、信頼を失ったとのことだ。
ノーベル賞受賞のための推薦文を三島由紀夫に書いてもらっている。
東大を受験したのも、名誉欲からだった。
終生、日本的なものを重視し、マルクス主義からは距離をおいていた。
以上 2020年9月12日(土)
0 件のコメント:
コメントを投稿