暗黒裁判二・二六事件 真崎甚三郎 1957年、昭和32年4月号 特集文春 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988
感想
本文は、二・二六事件の黒幕が真崎だとされていることに対する弁明の書である。しかも真崎は「満州事変の拡大を避けようとし、太平洋戦争にも加担していない。私は悪いことはしていない」という。
二・二六事件を真崎が起こしたというビラが、事件当日の昼に大阪で、夕方に小倉で撒かれたという。真崎は様々な弁明をし、それらはいちいちもっともらしいが、太平洋戦争に加担しなかったというのは嘘だろう。当時の日本の精神構造からすると信じられない。
真崎は問題点として、出身地域閥、学閥などを背景にした権力者間の争いを指摘するが、現在でも出身地だからとして、評価の割れる政治家(秋田県出身の菅義偉首相)を顕彰することからして、当時からあまり進歩していないようだ。論理によらず地縁で価値判断するとは、残念なことだ。
ウイキペディアを読んでみると、真崎の言っていることを裏書するような記事が載っていて、まんざら嘘でもないのかもしれない。東京裁判で真崎担当のロビンソン検事は、「真崎は軍国主義者ではなく、戦争犯罪はない。二・二六事件では真崎は被害者であり、あるいはスケープゴートにされたものであり、無関係」としている。
今もそうかもしれないが、当時の政界では陰謀が渦巻いていたようだ。
要旨
編集部注
305 1936年、昭和11年2月26日、陸軍部隊が重臣や要人を暗殺した。事件は、強力に歴史を根本から揺り動かした。(民衆を震え上がらせた、と言うべきではないか。)政府も軍部も事態収拾ができず、天皇の断乎鎮圧せよという強い命令でやっと鎮圧した。(天皇の言葉がなかったら、クーデターは成功していたのか。それほど天皇は強く、民衆の政治は軟弱だったのか。)真崎は事件の黒幕とされていた。これは、戦後、真崎の死後、発表された記録である。
本文
この記録は1955年、昭和30年5月8日に録音した原稿を写したものである。その際、原稿を清書し、字句を修正した。本記録は、10月10日から始め、同19日に終えた。
昭和30年10月19日(花押、かおう、署名)
306 昭和30年5月8日、工藤、木村、山家君が集まった際に私は談話を発表した。これにより世の蒙を啓きたい。
真崎は弾圧を受けた。各種事件の記録の多くは、宣伝を目的とし、捏造され、一部に偏し、過誤が多い。
岩淵辰雄*は陸軍通である。また橋本徹馬*の「天皇と叛乱将校」(昭和31年)という参考図書もある。
私は卑怯未練により弾圧された。日本精神は当時全く失われていた。
私は尾行され、私の発言の機会は奪われた。杭州湾上陸の柳川将軍*は覆面将軍にされたが、それよりも私のほうがひどかった。
*岩淵辰雄 1892.1.10—1975.6.6 ジャーナリスト、政治評論家。早稲田大学文科中退。
1936年頃から反統制派記者として知られ、2・26事件をめぐる状況や、統制派による中国侵略計画について批判的記事を書くことを憲兵隊から禁じられた。岩淵は皇道派が「政治に関与せず、反ソ反共である」という点で、自分と同じく自由主義的であると考えていた。
戦後は象徴天皇制の憲法草案「憲法草案要綱」を発表した。これは「マッカーサー草案」の内容に影響を及ぼした。
*橋本徹馬 1890.2.4—1990.5.19 早稲田大学専門部政治科中退。立憲青年党結成。雑誌「世界之日本」を発行。寺内正毅内閣打倒運動を展開。1924年、大正13年、紫雲荘を設立し、主幹となる。戦後、紫雲荘を再建し、機関紙「紫雲」紙上に政治評論を発表。
*柳川平助 1879.10.2—1945.1.22 軍人。皇道派の重鎮。1937年、第二次上海事変で、上海派遣軍支援のための第10軍の司令官に補された。中国軍の退路を脅かし、上海を攻略した。参謀本部や上海派遣軍の意向を無視して独断で中国軍を追撃し、南京攻略へと発展させた。1938年3月、召集解除となり帰還した。
私が弾圧されたのは私の不徳のせいだ。私には威張るところがあり、また他人に威張られることが嫌いだった。
(市ヶ谷裁判で私が米国検事ロビンソン氏に私のこの性癖を述べたところ、リンカーン崇拝者のロビンソン氏は、「それはリンカーンと同じ思想だ」と大いに喜び、これを機会に私と心安くなった。)
当時も、二・二六事件について少し書き残したが、一部分だけだった。最近友人から真崎弾圧について書けと言われ、私も余命幾ばくもないと感じ、書き残す気になった。
307 満州事変について述べる。昭和の初めころから国際情勢が日本を孤立させつつあり、軍幕僚の一部では、日本国家を改造し、ナチス張りの国防国家を建設しようという機運が盛り上がりつつあった。
当時中国では張作霖父子による排日の機運がみなぎり、わが同胞は悲憤慷慨の極に達し、満鉄の従業員だけでも決起しようとする状況になった。
理想の国家(ナチス張りの国防国家か)を満洲に作り、これを日本に及ぼして日本を改造する目的で満州事変を起こした。当時政府はその真意を知らず、これを押さえようとし、不拡大を声明した。軍首脳部もその方針だったが、第一線では拡大し、政府を悩ました。
私は満州事変を収拾すべく、1932年、昭和7年1月、参謀次長を拝命した。着任後上海事変が起こり、次いで熱河討伐となった。(まるで他人事だ。)当時関東軍には、北京、天津をも一挙に占領しようとする企図があった。かつてハルビン郊外で、馬占山*討伐中、石原莞爾がそれを私に洩らした。数次にわたって制止したが、関東軍はそれに従わず、長城を超えようとする勢いだった。当時陸軍には北支に軍隊を送る余裕がなかったし、対中国作戦上の決め手がなく、泥沼に足を取られる恐れがあり、私も拡大を避ける方針だった。
*馬占山は中華民国・満州国の軍人。1931年11月上旬、満洲の大興駅付近で関東軍と馬占山軍とが衝突した。関東軍は、国際世論を恐れる第二次若槻内閣の制止も顧みず、チチハルまで馬占山を攻めた。馬占山軍はチチハルを放棄し、関東軍は一部を残して撤退した。…1932年2月5日、ハルビンが関東軍により陥落し、2月7日、馬占山も関東軍に帰順した。…しかし、馬占山は4月1日、脱出しラジオで徹底抗戦を呼びかけ、ゲリラ戦を展開したが、劣勢のためソ連へ脱出した。…
海軍も拡大に反対し、天皇も拡大を好まれなかった。天皇は奈良侍従武官長を参謀本部に遣わし、関東軍が軍司令官の命令どおりに行動しないと非難し、私を叱責した。私は「全力を尽くして長城の線に止まるように処置してある、他に手段はない」と答えた。
308 ある日私は宮中に召された。天皇は、関東軍が長城の線を越える恐れがあると私を叱責した。私は、有力な使者を送っており、軍司令官の更迭を含意する電報を二回打っていたので、残るは私自身が長城の第一線に赴くことだけだった。
私は、閑院宮載仁参謀総長宮殿下(親王)*に満洲行きの許可を乞うたが、殿下はちょっと待てと言われた。そのうち武藤関東軍司令官*の望みどおり、塘沽で停戦協定が成立し、関係者は安堵した。
上海方面では、私は軍を引き上げさせ、満州方面でも「都合よく」終了できた。1932年、昭和7年7月15日、私は天皇に拝謁し、満洲を独立させないと「治まらない」と上奏し、それに基づいて満洲は独立した。
私が満州事変拡大を許さなかったために、陰謀家幕僚連に私は嫌われた。小磯、板垣は死ぬまで私の不拡大方針を非難した。往年満洲独立の記念祝賀会が新京で行われていたが、私だけが招待されなかった。
日本は今日のような哀れな状態に陥った。その原因は色々考えられるが、世界の歴史を見ても、宮中府中の重臣権臣の権謀術策が国家の大局を過ったことである。
日本の宮中府中の重臣権臣はデマや宣伝に踊った。満州事変の「真相」を究めようとせず、三月事件、十月事件、十一月二十日事件の真相について傍観していた。
309 三月事件、十月事件はクーデターで政権を取ろうとした一大陰謀であり、私どもは大いに反対した。そのため事件関係者は真崎の存在が邪魔となり、真崎を排除しようとした。十一月二十日事件では、真崎の責任問題を無理に作り上げた。これは真崎を排除する目的で計画された陰謀だった。
二・二六事件でも、重臣権臣はデマと宣伝に乗せられ、その背後に真崎ありと看做し、真崎排除に躍起になった。これは陰謀だった。
私は世間が想像するほど二・二六事件に関係はなく、事件が突発するまで、このような無謀な計画を全然知らなかった。しかし、実に手回しよく、事件が突発すると、その背後に真崎ありと宣伝し、世間だけでなく宮中もそう信じた。
1年3ヶ月にわたる軍法会議で、私は徹底的に調べられたが、何も発見できなかった。
当局は青年将校があれだけ真崎を担いだのだから、担がれた真崎も何か多少手を出したのではとの疑いを持ち、その調査に半年を費やした。死刑確定した者を執行せず、これを証人として三人に甘言をもって真崎に関する何ものかをつり出そうとしたが、ないものは出てこない。
決起将校中、私が知っているのは二人だけで、他は未知である。彼らは「私どもは何も知らぬ。ただ真崎という人は、正義感が強く、嘘をつかず、実行力があるということを聞いていたから担ぎました」と異口同音に答えた。
2月27日の夕方、阿部、西両大将の立会いの下で、私が決起将校を説得した事実は、事件に関係がある者のできることではない。
310 西大将もこれを認めた。次の5項目も、私に関係なく事件が起こったことを証明する。
一、二・二六事件は、当時裁判中だった相沢中佐*に同情する者がするようなことではない。相沢が不利になるからだ。しかし、実際は、やった者は、相沢の崇拝者ばかりで、彼らは相沢を救出できると考えていたのではないか。(これは理由にはならないのではないか。)
*相沢三郎中佐 1935年8月12日、真崎甚三郎教育総監更迭に激怒した相沢は、統制派の永田鉄山軍務局長を殺害した。
二、前東京憲兵隊長だった持永少将*の言によれば、二・二六事件の構想は十月事件そのままである。そして実際、関係幕僚は重なっていた。
三、十一月二十日事件と同様に、2月26日の昼頃大阪付近で、夕方小倉付近で、謄写版刷りの「背後に真崎あり」との宣伝文が撒布されていたという。手回しがよすぎる。
四、平沼男爵*の秘書竹内氏が津雲国利から聞いた話だが、西園寺元老は、この二・二六事件を前もって知っていて、25日の夜には静岡県警察部長の官舎に避難していたとのことだ。
五、1936年、昭和11年7月10日、(二・二六事件の首謀者の一人)磯部浅一と私は「対決」させられた。私が先に入廷し、磯部浅一陸軍一等主計は後からやって来た。磯部は大分やつれていたようだったが、突然興奮して、「彼らの術中に落ちた」と言った。私が「術中とは何か」と問うと、沢田法務官が壇上から降りて来て、「それは問題外なるゆえ触れて下さるな」と私に言い、磯部には「君は国士なるゆえ、そんなに興奮せざるように」と肩を撫でて室外に連れ出した。これで対決はあっさりと終わってしまった。何のことか分からなかった。これで私が第一項で述べたことも分かる。(ちっとも分からない。)
以上の他に、1937年、昭和12年11月17日、沢田主計検察官が私の刑務所にやって来て、「今少しお待ちください。あなたの終始不変の主張は非常に有利で、私どもは感情で仕事をせぬからご安心ください。もうすぐですから…」と言った。同25日、長男秀樹が来訪した。秀樹は情報通だった。「お父さんが何日に出るか、寺内陸相が責任を取り、いつ辞めるかが問題になっている。正月までには出られそうだ。」と言った。12月27日、看守長加藤高次郎が私の部屋に来て、「検察部から釈放の命令があり、只今物品の整理中です」と内報してくれた。しかし、これはお流れになった。後で聴くと、陸軍大臣から電話で停止命令が来たとのことだ。ついに公訴提起となった。出獄後岩淵君*に聞いたところ、私がこのころ娑婆にいると陸軍に不都合なことがあったとのことだ。
311 ここで私は腐敗した人間と話をするのがいやになり、断食をしたい気分になった。他にも私が二・二六事件に関係しなかったことを示す証拠はあるが、次になぜ真崎が弾圧を受けたのかについて語る。
昭和9年か10年頃の天皇機関説事件は、国体明徴運動を伴っていた。
当時柳川第一師団長は、「中央(軍上層部)がなんとかしないと(国体明徴を唱える)軍隊が治まらない」と要望して来たので、私は三長官と協議した後で、「陸軍大臣が訓示するのは当然であり、適切だが、大臣訓示は閣議を経なければならず、また政府は二回も(国体明徴に関する)声明を出しており、この問題(国体明徴問題)の取扱で困惑しているので、時間を要する。現役軍隊に対しては教育総監の訓示で当面はよいだろう」とし、三長官協議のうえ、教育総監が立案し、三官衙の責任者が協議決定した。私の案は、教育総監の職責を考え、政治的・法律的に触れないように注意し、精神教育上これを戒めるに止め、4月4日に出して、これを上奏した。これは教育総監の国体明徴の訓示であった。
312 この訓辞が出ると、現役軍隊の騒ぎが治まった。しかし政府は困惑したようだった。岡田内閣は真崎弾圧を最高政策の一つとした。このことを内大臣斎藤実子爵が、望月圭介に語り、望月が勝田主計に伝え、勝田が私に告げた。また私は昭和10年4月10日、甲府市の旅館談露館で、かつて参謀本部で私の配下で、当時甲府聯隊の大隊長の今田新太郎少佐から、同様の諷示(暗示、示唆)を受けた。
政府は当時荒木と私に尾行をつけていた。この件で近衛公は後藤内務大臣を詰問し、後藤は尾行を止めた。
昭和10年末、千葉県四街道在住の河村圭三元少将が私の現住所に来て、「中島今朝吾少将(後に中将、憲兵司令官)が荒木・真崎の暗殺を企てていると私(河村)に示唆したので、私(河村)は中島にその非を詰めたが、なお警戒せよと」と言った。私は中島憲兵司令官の訊問を拒んだ。
当時の当局の考えを知るための一つの挿話
満州事変後行賞が始まった。私のためには、現在私が所持している勲章の授与を陸軍大臣が申請し、松浦人事局長、赤芝恩賞課長が、賞勲局へ何度も出向いた。しかし、賞勲局の下條康麿総裁がそれを承知しない。その理由は私が国体明徴の訓示を下したからというものだった。(これは松浦中将の当時の私への直話)
私は交渉を止めてもらった。当局は、三長官協議を経て軍を治めるためにやったこと(教育総監の国体明徴の訓示)を犯罪として取り扱い、一方、弾圧に従事した者はご褒美を頂いた。林陸相もその一人だ。
このような私への弾圧が、相沢事件を招いたと考える。
313 軍人で政治的野心に燃えていた宇垣は、私の弾圧に加担した。現役将校の中央部幕僚を除いて、宇垣に反対する者は多かった。宇垣はこれら反対派将校の背後に、荒木や真崎がいると考え、政財界の巨頭に私に対する悪宣伝をした。そのため元老、重臣は、真崎を弾圧してもよいと考えた。私はこのことを近衛公から直接聞いた。
近衛公の真崎起用案はいつも潰された。
宇垣内閣流産のとき私は刑務所にいた。私の同僚は宇垣に同情して助けたが、宇垣はその意見を取り入れなかった。宇垣内閣流産の原因は、宇垣が信頼していた同僚の反対ではないか。
三月事件、十月事件に関与した将校の言動が、真崎弾圧に影響した。南陸相が彼等を処分していた。処分が寛大に過ぎると非難されたが、後任の荒木陸相が処分しなおすことはできない。荒木陸相は内部の醜態を暴露することを好まなかった。荒木陸相は、地方に散在させられていた者を逐次中央に復帰させたが、それが宮中関係などで遅れた。待ちきれない小磯、建川*らが、「荒木、真崎は派閥人事をやる」と不平を鳴らした。林陸相の時も、困ることは悉く真崎の責に帰した。建川の中央入りは、宮中だけでなく、陸軍省各局長、参謀本部各部長が好まなかったのに、彼らは「真崎が承知しない」と吹聴した。そして宇垣はこれら不平組を真崎排撃に利用した。
(最近の元東久邇宮の著書を見れば、宮は真崎と仲違いとなり、真崎のために地方に追いやられたように書いてある。私は宮が「皇族は軍人を辞すべし」と言ったとき、諌止したが、それ以外に争論をした覚えはない。宮の地方転出も私は止めたが、宮自身が地方転出を熱望した。背景に誰かの宣伝があるに違いない。)
314 中央幕僚が真崎を排撃した動機がもう一つある。彼等首脳部の一部は陰謀を企んでいた。私は満州事変以来、彼らの一部が中国で何事かを始めようとしていることに感づいた。
中央幕僚が何かを始めるには、中央三官衙の要職の少なくとも課長級以上を手中に収めねばならない。当時の首脳部の動向は、その気配を見れば分かる。
私の教育総監時代までは、三官衙の課長級以上の職員人事は、三長官の協議を要していた。私の(教育総監更迭という)人事異動の際、私は反対した。陰謀家たちは「真崎が統制を妨げる」と大宣伝し、閑院宮殿下もこれを信じた。閑院宮殿下は、三長官会議のとき、陰謀家たちの謀略に乗り、「(真崎)教育総監は事務の進行を妨害するか」と私を叱責した。
私はあらかじめこの陰謀を知っていた。私は宮に言った。「私は卑賤の身ながら、忠誠心を失っておりませぬ。何ゆえに妨害などいたす意がありましょうか。私は皇族の御長老であらせられる殿下の御意に副い奉ることできざること、今ここに身の置き所に苦しんでおります。しかし私は天皇陛下の教育総監であります。教育大権輔弼の責に任じております。今建軍の大綱が断ち切れんとしておりますのに、教育総監としてかかる案に同意できません。」と、断乎として言い放ち、陸相には、統制の基礎、根本方針の誤れることに対して痛棒を加え、顔色なからしめた。(天皇直属を言い出したら、人事異動などできないのでは。建軍の大綱とは何か。三長官の協議がなかったということか。)
これ以後皇族中にも「真崎は頑固だ」という非難が起こり、「真崎は統制を妨げる」として弾劾はいっそう強くなった。
支那事変は皇道派が起こしたように信じている者がいるが、真崎が弾圧され、皇道派がその末輩にいたるまで追放された後で、支那事変が起こった。
315 (清書の際に附記する。佐々弘雄は、昭和20年11月20日から23日まで、東京放送局から「支那事変は二・二六事件のボロ隠しである」と放送した。)(意味不明)
陸軍の派閥について。陸軍には、出身地、出身校(普通の中学校、幼年学校、陸軍大学出身者)、兵科別などにより軋轢があった。皇道派、統制派という派閥はなく、これはジャーナリズムの命名であるが、それは派閥みたいになった。
本は思想(好き嫌い程度の思想)の違いだが、その遠因は明治維新に遡る。
薩長二藩に文武両方面で有為の士が輩出し、薩の海軍、長の陸軍と言われるまでになり、私ら1895年、明治28年に士官候補生として入営したころまでは、薩長人にあらざれば軍人にあらずとまで言われた。
他府県の出身者は、色々な因縁から、この争いの中のどちらかに近かったり、あるいは中立に行動したりする者もいた。私個人は長州に親友や親族がいたが、江藤新平*以来、先輩は薩士と親交があり、いつの間にか薩閥に近くなった。それで反長閥と見られ、少将の階級以後常に首の座に据えられた。上原元帥、武藤元帥逝去後は、私は反長閥の巨頭と目されて弾圧された。湯浅内府まで私の懲罰を手伝ったと近衛公から聞いた。*江藤、真崎とも佐賀県の出身。
私の太平洋戦争との関係は明白だ。市ヶ谷裁判の調査で、私が戦争に全く無関係だということが明らかになったのに、私は追放に関する法律が失効し自然解除となるまで追放解除にならなかった。これで私に対する弾圧がいかに辛辣で深刻であったかを想像できるだろう。
316 私は(軍人人生で)悪いことをしていないと確信していた。攻撃を受ければ受けるほど意気が高まった。一時は憤慨に堪えないこともあったが、いくら捜しても私の罪は見つからなかった。
二・二六事件は私に教訓を与えた。二・二六事件は、人生の表裏、人間の本性、真の姿を明示した。私は親鸞聖人の教えが真であり、ありがたいものだとそのとき分かった。
以上病中動かぬペンを駆りながら、書く気分が生じた時に書いた。昭和30年4月10日から始め4月17日に終わった。
昭和32年4月号 特集文春
以上 2020年9月17日(木)
ウイキペディア
真崎甚三郎 1876.11.27—1959.8.31
1895年12月、佐賀中学を卒業後、士官候補生を経て、1896年9月、陸軍士官学校に入学。同校卒業後、陸軍大学校に入学したが、日露戦争が発生し、歩兵第46連隊中隊長として従軍した。1907年、荒木貞夫とともに陸大を卒業。恩賜の軍刀を拝領した。
第一次大戦中は久留米俘虜収容所長も務め、従来禁止されていた所内での音楽などを許可した。このことを衛戍司令官柴勝三郎中将に批判されると、「ドイツ人にとっての音楽は、日本人にとっての漬物類と同じことで、日常生活の最低不可欠なものであります」と答え、了解を求めた。
1915年11月15日、真崎がベーゼ(Boese)、フローリアン(Florian)両中尉を殴打した。捕虜側は捕虜虐待を禁じたハーグ陸戦条約に違反するとして、真崎所長の行為に厳しく抗議した。
陸軍の枢要である軍務局軍事課長を1年しか務めなかったが、真崎が陸軍機密費の不正蓄積に疑問を持ち、機密費の適正な使用と管理について具申したところ、近衛歩兵第一連隊に転出させられた、と後日子息に述べている。
その時、田中義一陸相、山梨半造次官、菅野尚一軍務局長、松本直亮陸軍省高級副官の4人が、機密費を扱っていた。田中義一は政界入りするとき、シベリア出兵時の機密費を流用し、立憲政友会への持参金としたとの風説があり、国会でも追及された。
陸軍士官学校本科長、教授部長兼幹事を経て校長を務め、精神主義・日本主義の教育を行った。二・二六事件の首謀者の一人磯部浅一はこの時期の生徒である。
1932年1月、犬養内閣の陸軍大臣荒木貞夫の計らいで参謀次長に就任。皇族の閑院宮載仁親王が参謀総長で、真崎が参謀本部を取り仕切った。
真崎は、満州事変の原因を、国家革新の熱病に浮かれた軍部の幕僚連が、理想の国家を満洲に作り、そこから逆に日本に及ぼして日本を改造するために引き起こしたと看做していたので、事変不拡大、満州事変を満洲国内でおさめることを基本に収拾しようとした。
統制派も皇道派も、対ソ戦に備えた点では同じだが、手段が異なっていた。統制派が総動員体制(真崎はこれを国家社会主義という)の構築、北支進出を狙ったが、皇道派は満州国の安定・「皇道精神」に基づく体制構築・対中関係安定・対列強関係修復を目指した。
第一次上海事変の処理で真崎は、軍の駐留は紛争のもととして、一兵も残さず撤兵した。
熱河討伐では、軍の使用は政府の政策として決定し、天皇の裁可を経てから実行するという建前に基づき、万里の長城を越えた北支への拡大を断乎として抑え、拡大派や国家革新推進派から非難を浴びた。その理由は、有利な戦機を見逃して2ヶ月以上も出動を押さえたというものだ。(それでは3ヵ月後には戦線を拡大したのか。)
真崎は満州事変後の軍の動きに不満を持つ昭和天皇から繰り返し叱責された。
真崎は佐賀県出身の平野助九郎(二・二六事件に関与)や石丸志都麿を通して、軍の機密情報を青年将校に漏洩し、省部の中堅将校から信頼を失った。
1934年1月、教育総監に就任。天皇機関説問題で国体明徴運動を積極的に推進し、率先して天皇機関説を攻撃した。
1934年、昭和9年、荒木陸相が辞任し、後任に林銑十郎がなり、陸相候補だった真崎は教育総監になった。閑院宮載仁親王が、真崎の陸相への推薦を嫌った。
林は永田鉄山を軍務局長に起用した。
林による真崎教育総監更迭案は、真崎が拒否したため、陸軍三長官会議で決めることになった。岡田啓介首相も真崎更迭を支持した。
1935年7月、参謀総長閑院宮載仁親王臨席の会議でも、真崎は辞任に応ぜず、激怒した閑院宮から叱責された。
真崎本人が同意しないまま、真崎は教育総監を罷免され、後任に渡辺錠太郎がついた。
昭和天皇も真崎更迭を歓迎した。
真崎辞任の経緯は自身の口から青年将校に洩らされ、統制派を批判する怪文書がつくられ配布された。この文書と1934年の陸軍士官学校事件の影響で、相沢事件が起きた。
真崎自身によると、軍中央から遠ざけられた、三月事件、十月事件の関係者が真崎を恨み、政界、財界、重臣に真崎らを誹謗し、真崎追放を決心し、湯浅倉平が天皇に真崎中傷を行い、閑院宮と梨本宮両殿下を動かされたことなどから教育総監更迭になった、としている。
また真崎は、木戸幸一が真崎の天皇への直訴を阻止し、天皇の考えを変えさせることができなかったと主張している。
1936年1月28日、磯部浅一が真崎に借金を申し入れたとき、真崎は「何事か起こるなら、何も言ってくれるな」と言っている。(黙認か。高橋正衛『二・二六事件「昭和維新」の思想と行動』中公新書、1981)
2月26日、皇道派の若手将校は、蕨起趣意書の上奏、昭和維新の大詔渙発、真崎への大命降下を計画していた。
軍事参議官の真崎は、反乱部隊が出発する前の午前4時半ころ亀川哲也から決起の知らせを受けた。亀川によれば、真崎は「これまで努力したことが無駄になってしまう」と驚いたとされる。
真崎は加藤寛治などと連絡を取り、午前8時半、胸に勲一等旭日大綬(じゅ)章を佩(はい)して*、反乱軍が占拠する陸軍大臣官邸に行った。*大命降下を期待していたらしい。
磯部浅一の獄中記『行動記』や供述調書によると、真崎は、出迎えた磯部浅一や香田清貞らに「とうとうやったか、お前たちの心はヨオックわかっとる、ヨオックわかっとる」と言ったとのこと。
一方、当時真崎の護衛憲兵で陸相官邸へ同乗した金子桂伍長によれば、真崎は「なんということをやったのだ」と叱責したとのこと。(どちらかが嘘をついている。)
真崎はうろたえる川島義之陸相と密談し、反乱部隊を解散させるのは難しいから、「蕨起趣意書」や「陸軍大臣要望事項」にそって、天皇から詔勅を渙発してもらい、解決すべきだと主張した。(やっぱり)
さらに真崎は伏見宮邸に向い、ここで加藤寛治と会談した。大詔渙発を目論んで、伏見宮博恭王、加藤寛治とともに参内したが、伏見宮を引見した天皇は全く取り合わなかった。
軍事参議官会議で参議官の一人から「今回の問題は我々の責任でもあるから、全員揃って辞職しよう」という提案があったが、荒木と真崎が反対して取り止めになり、反乱部隊に和する「大臣告示」が出された。
真崎よりも先に宮中に参内した寺内寿一を、真崎は怒鳴りつけた。
陸相官邸における行動、伏見宮邸における工作、軍事参議官会議における大詔渙発(の目論見)、戒厳令施行の促進などが、反乱者に対する利敵行為と看做され、真崎は、4月21日から東京憲兵隊本部の大谷敬二郎大尉らに取調べを受けた。
1937年1月25日、東京陸軍軍法会議により起訴され、6月1日から裁判が行われ、7月15日、反乱者を利する罪で禁固13年が求刑された。
9月25日の判決は無罪だった。反乱行為を利したが、利しようという意図は認定されなかった。
荒木が近衛文麿首相に真崎の無罪を頼み、近衛は、厳罰論に傾いていた杉山元陸相を説得した。上級判士磯村年予備役大将の証言によると、大山文雄陸軍省法務局長が、強硬派の判士小川関治郎陸軍法務官(少将相当)に、「円満解決」するよう説得した。
小川判士は「判決理由書は有罪論を展開し、主文は無罪とし、真崎が有罪であることが分かるようにした」と証言している。
証人として出廷した磯部浅一は、真崎の態度に幻滅し、『獄中日記』で真崎を激しく非難した。(真崎は自分の無罪のためなら、思想もくそもないのかも。)
太平洋戦争
統制派の東條英機首相が国家社会主義体制を構築する中、反主流派の面々は、真崎の元に集まった。吉田茂は対米開戦直後、「英米と和平の手を打つべき方針」を真崎に伝えた。吉田は、真崎・宇垣(一成*)連立内閣を構想し、真崎は賛成したが、宇垣は消極的で、不成立に終わった。また、吉田の仲介で、真崎は、同じく早期終戦を目指していた公爵近衛文麿元首相と接近したが、近衛は自らを首班とする内閣を考え、真崎はそれに不満だった。
*宇垣一成 陸軍軍人。陸軍大臣時代の宇垣軍縮1925実行、三月事件1931.3.20関与。短期間外相1938を務めた後、公職から引退。
戦後、東京裁判の首席検察官キーナンは、宇垣を「ファシズムに抵抗した平和主義者」と賞賛した。公職追放解除後、トップの51万票を集め、参議院議員1953となった。
終戦後
1945年11月19日、真崎はA級戦犯として逮捕命令を受けた。真崎は弁護士をつけなかった。尋問での供述は、責任転嫁と自己弁明に終始し、敵対していた東條英機と木戸幸一に対する敵意に満ちた発言と、自らは親米派だったとの主張を繰り返した。
真崎の手紙や遺稿によると、尋問中、自分の欠点は「他に威張ることと、威張られることが極度に嫌いであった」ことであると言うと、アメリカ人検事が「それはリンカーンと同じ思想じゃ、貴下は即ち日本的デモクラシーである」と喜ばれたとのことである。
巣鴨在監日記の1945年12月23日の項で「皇太子殿下は、父君陛下の如く奸臣に欺かれ、国家を亡ぼすことなく、力強き新日本を建設せられんことを祈る」と記している。
極東軍事裁判で不起訴処分を受け、梨本宮守正王を除いて、軍人では一番先に釈放された。
真崎担当のロビンソン検事は「真崎は軍国主義者ではなく、戦争犯罪はない。」「二・二六事件では真崎は被害者であり、無関係。」「二・二六事件のスケープゴートにされた。」とした。
公職追放解除後の1956年8月31日、心臓麻痺で死去。遺言書で「日本の滅亡は、主として重臣、特に最近の湯浅倉平、齋藤実、木戸幸一の三代の内大臣の無智・私欲と、政党・財閥の腐敗による」としている。
以上 2020年9月18日(金)
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