2020年9月10日木曜日

刺された永田鉄山 江戸川清 1935年、昭和10年9月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988 要旨・感想

刺された永田鉄山 江戸川清 1935年、昭和10年9月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988

 

 

感想 2020910()

 

 将校相沢三郎歩兵中佐による統制派永田鉄山軍務局長の刺突殺人事件は、状況が生み出した個人プレーらしい。

 

 統制派は皇道派を説得したが上手く行かなかった。統制派も皇道派もその意図するところは大差がない。統制派は国民を総動員する戦闘態勢に国家組織を変革しようと目論んでいた。(高度国防国家、ウイキペディア)

 林銑十郎陸相による皇道派の教育総監真崎甚三郎更迭が、統帥権干犯になるかが、二・二六事件前におけるこの裁判の焦点であったとのこと。それは殺人事件という論点をずらす、皇道派の行き過ぎではないかと思うが、この当時はそれが常識化しつつある恐ろしい時代であった。

 しかし、皇道派が弱体化した二・二六事件後の統制派も、非合法的傾向に変質する。(ウイキペディア)

 

 

要旨

 

編集部注

 

 (皇道派の)荒木貞夫陸相の登場から、陸軍部内は皇道派と統制派とにはっきりと分かれて対立してきた。荒木が退くとともに、統制派の中心人物と見られる永田鉄山少将が軍務局長に就任し、その後皇道派に対する抑圧が強まった。昭和10年7月、(皇道派の)教育総監真崎甚三郎大将が更迭され、皇道派の憤激に火がつけられ、8月12日の白昼、軍務局長室で、永田が刺殺された。この事件は翌年の二・二六事件の原因となった。

 

 

本文

 

 1935年8月12日の白昼、統制派の中心と言われていた軍務局長永田鉄山少将が、陸軍省軍務局長室で、将校相沢三郎歩兵中佐によって軍刀で刺され逝去した。その時たまたま軍務局長室に東京憲兵隊長・新見英夫大佐が居合わせ、相沢を制止しようとして負傷した。この時の陸相は林銑十郎であり、林は失意のうちに、翌月、川島義之大将に陸軍大臣の椅子を明け渡した。林は荒木貞夫陸相の後任だった。

263 かつて外務省でも阿部政務局長が、外部の侵入者によって刺された事件があった。*

 

*阿部守太郎 1872.12.10—1913.9.6  東京帝国大学法科大学政治科卒。1912年、政務局長に任命された。1913年9月1日、北京政府軍が南京を占領した時、日本人が惨殺され、外務省の姿勢が軟弱だと批判される中、岡田満・宮本千代吉によって刺され、翌6日、死去した。

 

 8月2日、昨年1934年の11月20日事件*に連累して停職処分になっていた(皇道派の)村中孝次中尉、磯部浅一一等主計が、「粛軍に関する意見書」を頒布し、また、教育総監真崎甚三郎大将更迭に関する陸軍の統制問題を取り扱った怪文書を各方面に配布し、免官処分を受けていた。

 

*陸軍士官学校事件(11月事件、11月20日事件) 皇道派の磯部浅一村中孝次らと陸軍士官学校生徒等が計画した、重臣・元老・政府首脳を殺害し、帝国議会・首相官邸を襲撃しようとするクーデター未遂事件。参謀本部付の辻政信大尉に相談した佐藤勝郎候補生がスパイを命じられ、クーデター計画の内容を掴み、1934年11月20日朝に、田代皖一郎憲兵司令官は、村中、磯部、陸軍士官学校予科の片岡太郎中尉の3人と、佐藤勝郎(スパイ)、武藤ら5人の候補生を逮捕した。クーデター参加者は2年後の二・二六事件の中心メンバーとなった。

 

264 永田は欧州滞在の経験があり、自由主義的で、軍隊内の個人の自由について意見書を上官に提出した時代もあったが、時勢の変遷とともに、漸次統率的国粋論者となった。

 満州事変以来、日本の軍部が事実上、日本の政治を左右しうるような時勢となってからは、陸軍の動向は、従来のように単純な陸軍自体の軌道の上にのみ走らなかった。五・一五事件、神兵隊事件*、昨年1934年の11月20日事件あり、あるいはパンフレット問題*等も飛び出して、陸軍の動向は世人注目の的となっていた。

 

*神兵隊事件 クーデター未遂事件。昭和8年、1933年、愛国勤労党天野辰夫大日本生産党青年部長の鈴木善一ら右翼が中心となり、安田銕之助予備役陸軍中佐、海軍航空廠飛行実験部員山口三郎中佐らの参画を得て、神兵隊と称した。

 計画は全国から動員した3600名をもって、重臣、閣僚、政党幹部および本部、警視庁、銀行などを襲撃し、飛行機による爆撃も行い、斎藤実内閣を倒し、戒厳令下で皇族内閣を樹立し、国家改造を推進するというものであった。

1933年7月11日前夜から、明治神宮に集まった49名が検挙され、計画は失敗した。

裁判で被告側は国体明徴の裁判闘争を展開し、その結果、内乱罪が否定され、全被告が無罪となった。(こんなことありか。)

その後、愛国勤労党は自然消滅し、大日本生産党は、津久井竜雄、三宮維信を除名し、青年部を失って分裂した。

 

 「しかも、この間に陸軍に背景あり、あるいはまた背景あるかのごとく動く右翼各団体が簇(そう)出して事態はいろいろと複雑なものとなっていた。」264 そしてこのことが、永田による軍の統制方針に結びついた。

 

 永田は陸軍部内で小畑敏四郎少将と清軍運動について激論を交わしたという。

 

 華冑界(貴族)の傑物木戸幸一、永田と同郷(信州)の内務省警保局長で「新官僚派」*の唐沢俊樹を交えた、西園寺公望公秘書で貴族院議員の原田熊雄男爵邸での朝食会に、陸軍軍務局長の永田が参加していたことに関して、陸軍の一部では快からぬ見解を持っている方面も存在していた。

 

*「新官僚派」の頭目と目された内相後藤文夫を唐沢が補佐していた。

 

265 永田は欧州の自由主義に浴したことがあるのに、天皇機関説排撃には想像以上に熱心だった。それで軍部は天皇機関説排撃で強硬だったのかもしれない。

266 永田が昨年1934年3月、軍務局長に就任した直後、林陸相は、実弟白上祐吉*が有罪となり、辞表を提出した。当時の陸軍次官は、現第一師団長の柳川平助中将で、憲兵司令官は、秦真次中将だった。

 

*白上祐吉 1884.12.19—1965.1.24  内務官僚。東京帝国大学法科大学政治学科卒。1929年4月から1931年7月まで東京市助役を務めた。在任中に東京瓦斯増資問題で賄賂を受けたとの嫌疑で裁判となり、1934年4月、東京地方裁判所で懲役10ヶ月の有罪となり、その後、大審院で上告が棄却され、懲役6ヶ月の有罪判決が確定し、下獄した。

 

1934年8月9日、在満機関改革問題の時は、次官が現橋本虎之助中将に代わり、秦真次中将も仙台に出ていたので、永田は満洲機関改革問題で大いに活躍した。「昭和11年度から満洲事変費を多少減額する」と林陸相が前議会で言明したとき、永田は在満部隊の常駐化の不可能を力説した。

267 本年1935年8月の定期大異動に先立ち、1935年7月に、先例のない教育総監真崎甚三郎大将の更迭問題があった。

 

陸軍首脳部が今後部内統制にどんな態度に出るか、国民が最も注視しているところである。

事件前後の事情、その背後関係等もしありとすれば、これらの諸事情が一日もすみやかに天下に明白にされて、光輝ある帝国陸軍が、この千載の恨事を転じて幸となすの方法を講ぜんことは、さらに国民ももっとも要望している点であろう。

 

昭和10年9月号 

 

以上 202099()

 

ウイキペディア

 

相沢事件

 

日本陸軍統制派は、国家総力戦のために、統制経済の下での高度国防国家への国家改造を目指した。

統制派は、1934年11月の士官学校事件や、1935年7月の、皇道派の教育総監真崎甚三郎の更迭により、反対派皇道派を一掃しようとした。統制派の林銑十郎陸軍大臣が、皇道派の教育総監真崎甚三郎に辞職勧告すると、真崎ら皇道派将校は統帥権干犯だと反論した。

 

1934年12月31日、相沢三郎陸軍歩兵中佐は、大岸頼好歩兵大尉に永田を斬ることを相談したが、反対されこの時は断念した。

1935年6月、林陸相と永田軍務局長が満洲や朝鮮への視察旅行中に、磯部浅一村中孝次河野壽らは永田を暗殺しようとした。

1935年7月19日、相沢は陸軍省軍務局長室で永田少将に辞職を勧告して、帰隊した。

相沢は真崎の更迭に際して配付された「教育総監更迭事件要点」や「軍閥重臣閥の大逆不逞」という怪文書を読んで、教育総監更迭が統帥権干犯であると確信し、また「粛軍に関する意見書263を読み、磯部、村中の免官を知った。そしてこのままでは皇道派青年将校たちが部隊を動かして決起し、国軍が破滅すると考え、元凶永田を処置すべきだと決意した。

 

1935年8月12日、相沢は軍務局長室での永田の刺突後、整備局長室に戻り、「永田に天誅を加えた」と告げた。整備局長山岡重厚中将は、相沢の出血していた左手をハンカチで縛り、某大尉に医務室に案内させた。また、永田の一の子分と言われた新聞班長の根本博大佐は(相沢に)駆け寄ってきて、固い握手を交わした。そして、調査部長山下奉文少将は「落ち着け、静かにせにゃいかんぞ」と(相沢に)声をかけた。このとき相沢は「ありがたい、維新ができた」と内心感激した。

 

9月から10月にかけて、林銑十郎陸相、橋本虎之助陸軍次官、橋本群軍務課長は退任し、川島義之陸相、古荘幹郎陸軍次官、今井清軍務局長、村上啓作軍務課長の布陣となった。

1936年、第一師団軍法会議で、教育総監更迭が統帥権干犯になるかや、永田が林陸相にあえてそれを行わせた陰謀の事実があったかなどが焦点となった。

 裁判の途中、二・二六事件があり、事件後、裁判関係者が入れ替わり、その後、一般公衆への公開が停止され、証拠申請も却下された。(皇道派の弱体化と統制派の巻き返し)

同年5月7日、死刑判決が言渡された。上告後の6月30日、上告が棄却され、死刑判決が確定したが、1審、2審とも、判決内容が事前に漏れていた

7月3日、判決謄本の送達も行われないまま、弁護人の立会いも許されず、銃殺刑が執行された。

(中野区)鷺宮の相沢家の供養に、荒木大将が弔問し、7月5日、真崎大将が弔問した。寺内陸相は花輪を供えようとしたが、側近に遮られた

 

刺突が行われた時、東京憲兵隊長・新見英夫大佐が同室していて、永田をかばって斬りつけられ、重傷を負ったが、同じく同室していた兵務課長山田長三郎大佐は、局長室から姿を消した。軍刀を取りに行っていたと弁明したが、卑怯だ、相沢と通じていたのではと批判され、10月5日、自宅で自決した。

 

社会民衆党の亀井貫一郎は、「議会、政党、軍、政府間で、近衛を擁立しようとした。またカウンター・クーデターの動きもあり、どちらのクーデターも、近衛を押し出そうと考えていた」と述べている。

 

以上 202099()

 

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