二・二六事件と私 柳家子さん 1971年、昭和46年9月号 決定的瞬間 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988
感想
落語家の柳家子さんが、陸軍一等兵としての初めての訓練で入隊した直後、二・二六事件があり、何も知らされずに連れて行かれたが、同僚隊員からの風聞では、むしろ要人襲撃を抑えるためとのことだった。
メモ
本文
1933年、昭和8年6月、私は落語家として弟子入りした。兵隊検査があり、1936年、昭和11年、麻布三連隊に入隊すると、早々に二・二六事件が起こった。寝入りばなの夜中の午前2時ころ起こされ、選ばれて出撃の準備をさせられた。
329 機関銃を二挺用意したが、いつもの演習用ではなく実弾を与えられた。おかしいなと思った。
野中四郎大尉の指揮下に入った。一緒に歩いている二等兵に尋ねると、「よく分からないが、偉い人を襲撃する動きがあるので、それを沈めに行くらしい」とのこと。
桜田門の警視庁に行き、その夜は地下の自動車置き場で野営し、交替で警備にあたった。
二日目の夕方までは食料があったが、その後はほとんどなくなった。
警視庁から鉄道大臣の官邸に移動させられた。
野中大尉は「みんなの生命をくれ」と涙ながらに訴えた。
たった一つの親子丼を60人ばかりで分け合った。
分隊長が上官にかけあって、士気高揚のため「小林一等兵、何か一席やれ」と言われ、しかたなく『子ほめ』という与太郎ものの落語を一席やったが、全く受けなかった。
(鉄道大臣)官邸を出て、三宅坂の土手から半蔵門にむけ機関銃をすえたとき、将校から「ここがお前たちの死に場所だ」と言われた。
330 いまでも裸の女人像のあるあの前を通ると、この時のことを思い出す。
武装を解除され、帰隊するまで何のことだかさっぱり分からなかった。「兵に告ぐ」というビラも私たちの目に触れなかった。
その年1936年の5月、私たちは満洲に送られた。満洲では反乱軍の汚名をそそぐという目的で、徹底的にしごかれた。
半年ほど満洲にいて私は内地の留守隊に帰されたが、満洲に残された者も少なくなかった。その間に盧溝橋事件1937.7.7—7.9が勃発し、多数の戦死者を出した。
昭和46年9月号 決定的瞬間
以上 2020年9月22日(火)
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