山本五十六代表一問一答録 1935年、昭和10年3月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988
感想 2020年9月7日(月)
山本五十六は何々団、何々支部や少年たちから激励されて244日本の利益を代表して交渉に臨み、多くの成果を得たかのように本文には書かれているが、実は、ウイキペディアに書かれていること、つまり、最初から日本がこの海軍軍縮交渉(ロンドン、1934.10)を決裂させる目的で、戦艦・空母の全廃を提案したということや、海軍内部に条約派(交渉推進派)と艦隊派(軍拡派)とが存在し、後者が前者の幾人かを予備役に降格させたということなどが、本文でも編集部注では触れられていない。
この交渉の決裂は軍縮完全廃棄に繋がり、その後、建艦競争が熾烈を極めたという。これは最初からの日本側の目論見だったのである。
編集部注
大正のワシントン1921.11--1922.2、1930年、昭和5年のロンドンの二大軍縮会議に続いて、さらに軍縮協定を強化しようと、海軍軍縮予備交渉が、1934年、昭和9年10月にロンドンで開かれた。しかし、日本側がこれまでの比率主義を廃止し、一律総トン数主義による制限方式を主張したため、米英と激しく対立し、協定はならなかった。これが軍縮完全廃棄につながり、建艦競争へすすんだ。
ウイキペディア
9月20日、山本は第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側首席代表として日本を離れた[76]。
対米強硬派の軍事参議官・加藤寛治は「…見送盛也、但シ山本少シク上ボセ気味、大ニ托スルニ不足…」と日記に書いている[77]。
山本は政府の意を受けて「戦艦・空母の全廃、兵力量の各国共通制限設定」を主張し[78]、列強交渉団と互角に渡り合う[79]。
ただし、「戦艦・空母の全廃」は会議の決裂を日本政府が意図したものであり、山本が出発する直前の9月7日にワシントン海軍軍縮条約の破棄を決定している[80]。このような状況の下で欧米と交渉中、同期の親友・堀悌吉が予備役に編入される大角人事があって山本は気力を失い[81]、またアメリカも条約締結について冷淡であり、結局予備交渉は中断した[82]。
堀への手紙で山本は日本の対外強硬論への不満と苛立ちを語り[83]、また愛人への手紙にも「自分がただ道具に使はれたに過ぎぬやうな気がして」と述べ、「誠に不愉快である」と心境を明かしている[84]。ロンドンからかつての部下へ宛てた手紙には「英米を叩頭せしむるの日必しも遠からざるか如く被感候 海軍としては何はともあれ航空の躍進こそ急務中に急務なり」と書いた[85]。
大角(おおすみ、大角岑生海軍大臣)人事
ワシントン海軍軍縮条約・ロンドン海軍軍縮条約が締結され、不満を募らせていた軍令部を中心に、海軍省の権限を弱体化し、軍令部の権限を強化する動きが活発化した。伏見宮博恭王が軍令部長に就任すると、軍令部次長在任わずか四ヶ月の百武源吾中将が海軍大学校校長に転任となり、高橋三吉[1]中将が次長に就任する。この交代の背後には艦隊派の加藤寛治大将による大角への圧力があった。艦隊派の後ろ楯であった伏見宮は「私の在任中でなければできまい。是非やれ。」と後押しし、高橋次長が主導して軍令部の権限強化策を断行した。軍令部長が軍令部総長となったのはこのときのことで、その最終的な成果として「軍令部条例」と「省部事務互渉規定」が改定され、1933年(昭和8)年10月より発効した。[2]軍令部側は人事権も要求していたが、これは海軍大臣に残された[3]。こうして軍令部は海軍省を圧倒するようになり、人事についても大角に要求を突きつける。
第一段階として、大角は艦隊派の圧力により、ロンドン条約の批准・発効に尽力した2名の海軍大将を予備役に編入した。
山梨勝之進大将…元海軍次官。昭和8年3月11日予備役。
谷口尚真大将…前軍令部長。昭和8年9月1日予備役。
山梨はロンドン海軍軍縮条約締結時の海軍次官で、財部彪大臣がロンドンに赴き不在の中、艦隊派の説得に尽力した。谷口は条約厳守の姿勢を貫き、満州事変に乗じた海軍の軍備力増強を認めなかった。このため、艦隊派からは強力な抵抗勢力とみなされていた。次いで以下の4人が予備役となった。
左近司政三中将…ロンドン海軍軍縮会議首席随員、1934年(昭和9年)3月31日予備役。
寺島健中将…満州事変時の軍務局長、1934年(昭和9年)3月31日予備役。
堀悌吉中将…ロンドン海軍軍縮会議時の軍務局長、1934年(昭和9年)12月15日予備役。
坂野常善中将…駐米大使館駐在武官・軍令部第三班長・軍事普及部委員長として対米避戦論を展開、1934年(昭和9年)12月15日予備役。
以上 2020年9月7日(月)
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