雪の叛乱司令部一番乗り 和田日出吉 1954年、昭和29年7月号 昭和メモ 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988
感想 2020年9月19日(土)
著者は中外商業新報(後の日本経済新聞)の記者で、女優木暮実千代の夫。決起将校栗原安秀と親しかったので、二・二六事件のときに首相官邸に入ることができた。kinuyo-bunka.jp つぶや記141
本文は昭和29年に発表されたもので、事件関係者に対して批判的なことを書いている。岡田首相の死体(実際は義弟で秘書格の松尾伝蔵大佐)にかけられた布団を少し離れたところで見て、「なんという残忍な!私は凄惨なその場の光景を想像して、憎しみがこみあげて来て仕方がなかった。」326としている。
ターゲットは、主にリベラル派の経歴を持つ政党関係者や軍人である。
二・二六事件のターゲット
死亡
・松雄伝蔵・内閣総理大臣秘書官事務取扱(私設秘書。岡田啓介・総理と誤認された。)岡田啓介。海軍軍人、政治家。天皇機関説支持と見られ、陸軍皇道派や、蓑田胸喜など平沼騏一郎周辺の国家主義者に攻撃された。1935
・高橋是清・大蔵大臣。官僚・政治家。インフレ出口政策のための軍事予算縮小で軍部に恨まれた。1934--
・斎藤実・内大臣(海軍軍人、ジュネーブ海軍軍縮会議首席全権1927、首相1932.5.26—1934.7.8、条約派。リベラル派。
・渡辺錠太郎・教育総監・軍事参議官。陸軍軍人。なぜ殺されたのか不明。
負傷
・鈴木貫太郎・侍従長。海軍軍人、政治家。国家主義者や青年将校からは、牧野伸顕と並ぶ「君側の奸」と看做されていた。ロンドン軍縮条約に対する政府の回訓案に反対した海軍軍令部長・加藤寛治が単独帷幄上奏しようとしたとき、思いとどまらせた。これは侍従武官長が取り次ぐべきもので、鈴木の行為は越権行為のおそれがあった。1930
避難
・牧野伸顕(内大臣1925—1935、常侍輔弼)政治家。1871年、11歳で父や兄とともに岩倉遣欧使節団に加わり渡米し、フィラデルフィアの中学を経て、1874年に帰国し、開成学校(後の東京帝国大学)に入学。1880年、東京大学を中退して外務省入省。1919年、パリ講和会議次席全権大使。二・二六事件当時、親英米派の代表として、湯河原の伊東屋旅館別荘「光風荘」に宿泊していた。
被害
・警察官5名殉職、1名重傷
メモ
本文
316 2月25日の夜、私は大仏次郎に会う前に、大川端の料亭に行った。そこに、三上於菟吉*と、Xという軍スポークスマン役の軍人が来ていることを知って退散し、大佛次郎が待つ料亭に向った。三上や直木三十五は、Xを通じて当時の軍部と接触を持っていた。
*三上於菟吉は大衆文学の流行作家。代表作は『雪之丞変化』
317 2月26日の朝、私は勤務先の中外商業新報から出社を要請された。
(ここ半年間で、青年将校運動の問題、国体明徴問題、天皇機関説問題、永田軍務局長暗殺、美濃部博士襲撃事件等々の陰惨な白色テロに通じる事件が相次いで勃発していた。右翼団体、青年将校等による怪文書が、まるで爆薬のように私たちの身辺に投げかけられていた。事実その頃の新聞は、それらの動向がニュースの重大なポイントだった。)
私は当時軍部の動きについて総合雑誌に執筆していて、青年将校の二、三の連中と接触を持つようになった。青年将校という人々が私を訪ねてきて、社会問題や経済問題で議論を吹きかけられる機会があり、彼らの動向も分かるようになった。
まったく危ない世相がひたひたと瞼に迫っているのを感じていた。革命の前夜とでもいう、あわただしい陰惨なその日その日という感じだった。来るべき3月の初旬を期して、軍の一部の直接行動の蹶起を思わせる風聞が、どこからともなく耳に入ってきたこともあった。
318 編集室に着いた。今までの暗殺事件などと違って、今回のものは軍隊の直接行動による暴動的な革命的様相を持っていた。軍部への通信が途絶えているから、私たちの耳に入ってくるものは、(岡田啓介、身代わりで難を逃れる)総理、(高橋是清、死亡)蔵相、鈴木(貫太郎、侍従長、負傷)大将、朝日新聞などがやられたという断片的なものだった。
昨夜の料亭に電話すると、三上もXも朝の10時過ぎだというのに就寝中だった。Xは事件を前もって知らなかったのだ。Xは統制派だった。
319 栗原安秀中尉から電話があった。
以前私が栗原と話す時、栗原は軍人としての不満や不安を素朴に単純に理論化して論じた。その前の年の暮れに、彼はこう言った。
「私たちは世の中で想像されているように、軍人による独裁を考えていない。このままでは国が亡びる。政党も財閥も腐りきっている。今は、何もかも天皇陛下に捧げ奉って、国のあらゆる部門を改造するときだ。その改造で一番必要なのは、改造のきっかけだ。突破口だ。すなわち現状の破壊行動だ。今までの支配階級や一般大衆などにその力がない。今の段階でそれは、私たち軍人だけに残された仕事だ。日本が生成発展してゆくのを妨害するのは、軍部の一部と政党と財閥だ。それを取り除くことが、私たちの突破口だ。私たちはそこへ屍を埋める。」
子供っぽい単純な信念に私は悩まされた。しかしそれには狂信者の情熱がこもっていた。
4、5日前に私は、細君を連れた栗原に銀座の「松喜」で会った。夫婦で散歩に来たという。そのとき栗原は「遠いところへ行くかもしれません」と言った。気になる言葉だった。私は彼等が渡満する前に蹶起するという情報を聞いていた。
後で聞いた話しだが、彼はその日、襲撃目標の首相官邸を細君を連れて外部から偵察した帰りだったという。
私は栗原の電話に出た。私はその時彼が蹶起部隊にいるとは知らなかった。
320 彼は首相官邸にいるという。私は首相官邸に行くことにした。
323 栗原中尉は私に説明するために、ガリ版刷りの蹶起趣意書を渡した。栗原は世間の模様と、彼らの行動に対する世の中の反響、それに地方の軍隊の動きや(襲撃した)牧野内府の湯河原がどうなったのかを知りたがった。
襲撃リストには財閥関係が一人も入っていなかった。
「僕たちはただ国家改造の癌を取り除いたんだから、後はさっぱりよくなっていきます。」「内閣には小畑や、柳川…」「真崎は後だ。」
324 自信たっぷりの口吻だ。
21歳くらいの常磐とかいう紅顔の少年少尉が、岩波文庫の唐詩選を読みふけっていた。
「高橋蔵相は負傷で済んだそうだ」と私が言うと、中橋(基明)という中尉が「私がやったんで、違いはありません」と口を挟んだ。顔色のよくない、前歯が蝕まれた暗い表情の中尉だった。
Y大尉が現れた。Y大尉はその年の正月の壮丁の入営式で、高橋蔵相を攻撃する演説をした将校である。
次に、帰順勧告をしに来たらしい将校が現れたが、すぐ帰された。
325 栗原は、岡田総理の暗殺された場所に渋々案内してくれた。取り外された岡田総理の写真額の脇に、加藤友三郎大将の写真額が掛かっていた。岡田さんが海軍の先輩として隣に掲げて置いたものだろう。
反乱軍の行動隊に紛れ込み、岡田総理の遺骸に接するとき、私は異常な呵責を感じた。
326 私には一国の首相であり、尊敬すべき先人である。私は襖から離れて立った。私は敷居越しに遠くから静かに頭を下げた。
(実はこの布団の中にいたのは岡田首相ではなく、その秘書格の松尾大佐だった。そのことを数日後の内閣発表で知らされた。栗原等は写真額で首実験したというが、見間違えたのだ。)
なんという残忍な!私は凄惨なその場の光景を想像して憎しみがこみ上げてきて仕方がなかった。
納戸に護衛の巡査が布団にくるまって死んでいた。
女中部屋に17、8の女中が一人、押し入れの襖に背中をくっつけてうずくまっていた。
327 (実はこの女中の背後の押入れに、岡田首相が身を隠していたのだ。)
総理大臣の秘書官迫水久常が現れた。
それから4ヵ月後、叛乱軍将校の処刑を耳にしたころ、栗原からの手紙が届いた。
「先輩にはいろいろお世話になりました。
維新到頭一蹶、もっとも時運転向の一礎石となれば幸甚、僕はそう確信しています。
私は先に参ります。しみじみと人生を考えた呑気な四ヶ月を送ったことを感謝せねばなりますまい。
鞏固な信念と勝利者たる誇りと人生の秘奥の獲得とこの三つを持ってさようならするのは至極の愉快です。
今年29歳、たとえいかなる毀誉褒貶があろうとも時代飛躍の一助になったことを喜びます。
社会の溌剌たる動きを引き起こしたことを自ら信じましょう。
7月6日 栗原安秀
和田日出吉様」
感想 こういう確信がなければ行動には移れないのだろうな。長老の右翼扇動者の罪は重い。
昭和29年7月号 昭和メモ
以上 2020年9月20日(日)
ウイキペディア
栗原安秀 1908.11.17—1936.7.12 陸軍軍人、国家社会主義者。
名教中学校(現・東海大学付属浦安高等学校・中等部)4年修了で、1925年4月、陸軍士官学校予科に入校。栗原は中学生の頃から『国家改造』について雄弁に語っていた。1929年、陸軍士官学校本科卒業。
1933年の救国埼玉青年挺身隊事件*に関与し、主犯格相当だったが、処分はなかった。
*1933年11月13日に発覚し、未遂に終わったクーデターである。計画段階では、斎藤実*、牧野伸顕、西園寺公望ら重臣の暗殺計画があったが、中止し、立憲政友会の鈴木喜三郎総裁の暗殺を計画していた。拓殖大学学生・吉田豊隆が主宰する救国埼玉青年挺身隊隊員と青年将校とが協力した。
*斎藤実は内大臣となった直後の二・二六事件で暗殺された。1933年当時は首相1932.5.26—1934.7.8
栗原が磯部に決起を持ちかけ、磯部が同意した。栗原の所属する歩兵第1聯隊が動員されるはずだったが、実際に参加したのは全反乱部隊の30%にすぎず、参加人数の大半は、安藤輝三歩兵大尉の歩兵第3聯隊から出された。
栗原は、1936年2月26日午前5時、岡田啓介総理がいる首相官邸襲撃を指揮した。総理の義弟・松尾伝蔵を総理本人と誤認し、岡田の暗殺には失敗した。
午前9時、朝日新聞社を襲撃し、活字ケースをひっくり返し、その後、日本電通、東京日日、報知、国民、時事新報の各新聞社や通信社を回り、決起趣意書の掲載を要求した。その夜は、盟友中橋基明隊とともに首相官邸に宿営した。
戒厳司令部は、栗原と、西田はつ(西田税の妻)や斎藤溜予備役少将との電話を録音していた。
2月28日、陸相官邸に集まり、陸軍省軍事調査部長山下泰文少将から、「宮中の雲行きがあやしい」ことを聞き、自刀する決意をしたが、29日、奉勅命令が出され、裁判での徹底抗戦を叫んだ。
同日29日午後0時50分、反乱部隊将校が免官となる。午後1時前、安藤輝三(第6中)隊*を除いて、栗原隊も帰順し、叛乱将校として陸相官邸に集められた。
*安藤隊は山王ホテルを拠点に最後まで抵抗した。安藤は喉元にピストルを撃ったが死に切れず、刑死した。
7月5日、特設軍法会議で死刑判決が宣告された。遺書に裁判の不当を告発し、「我等を虐殺せし」幕僚に報復を誓い、彼等が滅びぬなら、「全国全土をことごとく荒地となさん」とあった。
7月12日、銃殺刑に科された。享年27。
以上 2020年9月20日(日)
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