2020年9月7日月曜日

人としての美濃部達吉博士 大森義太郎 1935年、昭和10年4月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988 メモ

人としての美濃部達吉博士 大森義太郎 1935年、昭和10年4月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988

 

 

感想 202097()

 

大森義太郎はマルクス主義者で、三・一五事件で東大教授を追放されたとのこと。すでにこの時代の憂鬱な言論統制のせいか、大森は正面からマルクス主義を語らない。ただ美濃部達吉とは考え方が違うと言うだけだ。

 

僕はその時分(東京帝国大学入学時)でも美濃部の憲法論に全的に満足していたわけではない。既に社会主義を生齧りし、階級国家説をいくらか知っていた僕は、美濃部の憲法学の基礎になっている国家論に飽き足らなかった。252

 

僕はマルクシズムの学徒として、美濃部の理論、政治的立場に先鋭に対立する。258

 

大森はその後、人民戦線事件で逮捕・拘禁1937されたが、1938年病気で保釈後癌になり、失意のうちに亡くなったとのことだ。

 

 

編集部注

 

統帥権干犯騒動*、満州事変、そして国連脱退と波瀾の内外問題でおもむろに力を得てきた右翼勢力がつぎにねらったのが、東大名誉教授美濃部達吉の憲法学説だった。1935年、昭和10年2月、貴族院で菊池武夫議長がこれを議会で取り上げ、美濃部を“学匪”と決めつけた。軍部がこの攻撃に同調し、のちに美濃部は不敬罪で起訴され、著書は発禁処分とされたが、9月に美濃部が貴族院議員を辞任することで起訴猶予となった。

 

*統帥権干犯騒動 

 

昭和5年(1930)浜口雄幸内閣のロンドン海軍軍縮条約調印をめぐる政治問題。「海軍軍令部の承認なしに兵力量を決定することは天皇の統帥権を犯すものだ」として、海軍軍令部加藤寛治大将や、枢密院議長倉富勇三郎や、政友会(犬養毅政友会総裁、鳩山一郎)や、右翼などが同内閣を攻撃した。

この事件以後政党政治は弱体化し、軍部は政府の決定に従わなくなり、「自分たちに命令できるのは陛下だけだ」と主張した。

その後この政友会の犬養毅が首相になり軍縮を提案したところ反発され、五・一五事件の被害にあうとは、皮肉なものだ。政友会は田中義一総裁のときに在郷軍人会を支持団体として親軍化していた。

 

 

大森義太郎 1898.9.26--1940.7.28

 

神奈川県横浜市出身。大正11年(1922年)東京府立四中から一高を経て、東京帝国大学経済学部卒。卒業と同時に同学部助手。大正13年(1924年)東京帝国大学助教授19284月に三・一五事件に関連して東大を辞職し、以後は講壇ジャーナリストとして生活することになる。

 

1933年に『唯物弁証法読本』を出版。

 

1937年の人民戦線事件で検挙1938年に病気のため保釈されたが、失意のうちに胃癌のため1940年7月28日、生涯を閉じた。

 

以上 202097()

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