2020年9月23日水曜日

二・二六事件二十回放送 中村茂 1952年、昭和27年9月号 オール讀物 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988

二・二六事件二十回放送 中村茂 1952年、昭和27年9月号 オール讀物 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988

 

 

感想

 

 皇族に対する敬語が、天皇、満州国皇帝、皇族と三段階もあったとは知らなかった。このことから身分制が微に入り細に入り徹底されていた時代だったことが分かる。それでは言論の自由は保証されなかっただろう。

 一方で「天皇の決断によって二・二六事件の解決を見て、日本人としてうれしい」という感覚がこのアナウンサーにも見られるが、これは他人任せの政治感覚であり、それでは政治は動かず、それが戦争を起こしたと言える。

 

 

メモ

 

編集部注

 

330 「今からでも遅くない。父母兄弟は泣いておるぞ」と繰り返し流されたラジオ放送は、叛乱軍の帰順に効果的だった。本文の筆者中村茂はそのアナウンサーだった。

 

本文

 

 二・二六事件の前に、当時の身分制の色濃い時代を示す、皇族に対する敬語を紹介する。以下は満州国皇帝が東京駅に到着する直前、天皇がそれを待ちうけている様子を述べた実況中継である。

 

 「かしこくも天皇陛下おかせられましては天機ことのほか御麗しく、緋の絨毯に玉歩を運ばさせられ、総理大臣始め文官顕官迎えたてまつり申し上げる裡を、ホーム中央に出御遊ばされました。」

 

 私はこれより先十数分前から、東京駅ホーム待合室の傍らで、満州国皇帝の訪日御入京の模様を放送していた。関係者以外の人々はもちろん、全ての車両は見えないところに移され、針一つ落ちても聞こえるという静寂の中で、私の声だけが低く流れていた。突然武井式部官が近づき、「アナウンサーの声がお上のお耳にはいる。もっと低く低く。」と注意してさっと元の席に戻って行った。

 

331 秩父宮殿下が横浜港に満州国皇帝を出迎えた。その紹介で満州国皇帝は天皇と握手した。なみいる顕官達の感激に震える顔々であったこの光景こそ、思えば皇国日本の最も華やかな歴史の一齣であった

 

 かく記していくと、読者は時代離れのした敬語に驚くことであろう。天皇陛下は現神(あきつかみ)であり、ついに「上御一人」という言葉すら禁句になった。天皇、皇帝、皇族と全ての言葉に三段の敬語を使い分けねばならなかった。

 私が天皇の耳に聞こえるほどの音量でアナウンスしたことで、(日本放送協会の)中山理事が宮内省に出頭し、お詫びしたところ、「お上は御機嫌がおよろしかった。其の儀に及ばず」というわけで、私の首はつながった。

 天帝の子として生まれ、清朝最後の皇帝から退位し、蒙塵(もうじん、天子の都落ち)、執政、皇帝、敗戦と数奇の運命に弄ばれた溥儀氏は、ソ連抑留中、極東軍事裁判所に証人としてほんの短期間来て立ち去ったが、今その消息が明らかでない。*(満州国皇帝は昭和10年4月2日と、昭和15年6月22日の二回訪日した。おそらくこの時は昭和10年の時のことだろう。)

 

*溥儀は1950年、ソ連から中国の撫順戦犯管理所に収容され、1959年、釈放され、1960年、政協第4期文史研究委員会専門委員に就任。1965年、政協全国委員に選出される。1967年、北京で死去。1952年当時は、撫順管理所で収容されていた時期である。

 

二・二六事件

 

 昭和11年2月26日、希に見る大雪。いつもの経済市況の放送が出て来ない。9時5分も9時30分も休止。私は夜勤明けだったが、愛宕山に急いだ。報道部の人たちが駆けつけ、集まる情報を無言で見入っている。警視庁その他の電話は全く不通だが、一部現役軍人によって要路の大官が襲われ、虎ノ門付近の官庁は武力によって占拠され、事件は予想以上に大きく、前代未聞であることが分かった。

放送は、講演、音楽、演芸いっさいが中止、わずかに午後零時40分と4時のニュースの時間に、東京大阪両株式取引所の立ち合い停止および日本銀行の取引状況等を繰り返したにすぎなかった。聴取者から問い合わせの電話が頻々と来た。

332 午後7時のニュースで初めて事件関係の報道が許された。(叛乱軍は日本放送協会を占拠しなかったのか。)「第一師団管下に戦時警備令布かる」という告示が何度も放送された。

 午後8時35分、襲撃場所と蹶起趣意書が陸軍省発表として放送された。(叛乱軍の指示か。)

 

 2月28日(27日が抜けている。)早朝、九段軍人会館に設置された戒厳司令部の三階の映写室にマイクロホンが移され、午前10時半、重大発表はすべて司令部の放送によることに決まり、報道部長成沢氏とともに司令部に赴いた。

 二階は作戦部である。この叛乱に加担した某青年将校が情勢偵察にこの辺りを遊弋(ゆうよく)していたのを見受けた。

 夜一枚の発表文がもたらされた。

 

 戒厳司令部発表第三号

一、一昨26日(つまり今は28日)早朝騒擾を起こしたる数百名の部隊は、目下麹町区永田町付近に位地しあるも、これに対しては戒厳司令官において適応の措置を講じつつあり。(委細を問うな。)

二、前項部隊以外の戒厳司令官隷下の軍隊は、陛下の大命を奉じて行動しつつありて、軍規厳正士気また旺盛なり。(こちらが優位に立っている。)

三、東京市内も、麹町永田町附近の一小部分以外は平静なり。(反乱軍の勢力は弱小だ。)

 

29日(この年はうるう年)午前6時25分、香椎司令官の、断の一字が電波に乗った。「再三再四説諭したるも、彼等はついにこれを聞き入るるに至らず…遂にやむなく武力を以って事態の強行解決を図るに決せり…」

 「万一流弾あるやも知れず、戦闘区域付近の住民は次のようにご注意ください。」に続く、諸注意、掩護物の利用、立ち退き区域、立ち退き随意区域、交通停止区域…。「一般民衆はいたずらに流言蜚語に迷わされることなく、つとめてその居所に安定せんことを希望す。」という注意もたびたび放送された。

 2月29日午後8時48分、陸軍省報道班の大久保少佐が、「兵に告ぐ」を書いた。前日28日に帰順した叛乱兵の告白で、全然事情を知らないで事件に加わった彼らの心情を察し、朝敵にならない前に帰順するようにと説得する一文である。

 この放送と同時に叛乱兵に直接聞かせようとして、中継係の友安氏は、報道班の松井中佐から「君の命をあずけてくれ」(たいそう)と言われ、ラウドスピーカーをつけた自動車に乗り、永田町の叛乱部隊の中に乗り入れ、(戦車でやったのでは。車では危険なのでは。)

 

一、今からでも遅くないから原隊に帰れ。

二、抵抗する者は全部逆賊であるから射殺する。

三、お前たちの父母兄弟は国賊となるので皆泣いておるぞ。

 

と再三再四放送し、飛行機からも同文のビラを撒布した。

 

334 何時間か経ってから、帰順の報告を聞いた。

 

 一発の銃砲火を交えることなく、全部の帰順が終わり、3月1日午後3時には、全く鎮定した旨の放送を終わり、同夜7時、陸軍大臣の本事件に関する声明を最後に、20回に渡る放送を終えた。

 

 この事件が何を意味していたのか、我々国民の多くは深く吟味しなかった。天皇陛下の命令一下鎮定を見たことを日本人の幸福と思ったのであるが、翌12年7月には北支に日華の戦いが始められた。五・一五事件、二・二六事件と続く一連の事件は、敗戦日本の一里塚であった。私はできるならこの放送を忘れてしまいたい。(忘れてはいけない。無垢の平和は存在しない。)

 

昭和27年9月号 オール讀物

 

以上 2020922()

 

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