芸術統制是非 辰野隆 1935年、昭和10年7月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988
感想
内容があちこち飛んでいて分かりにくい文章なのだが、要は、美術家が国家の枠組(国家主催の展覧会)の中で異議(監査撤廃)を唱えていたのでは説得力がない、一匹狼で国家権力から離れたところで活躍すべきだということだ。また、その点では文筆家の方が国家から独立しているという。
要旨
編集部注
昭和10年5月の松田源治文相による帝国美術院改組に関して、横山大観ら14人の会員が、官僚統制だとして辞職声明を出した。これは国家による文化統制の第一歩となった。
本文
259 「各派美術家が、むしろ初めから官辺の庇護などに頼らず、一人一党の見地に立って、もしともに進むのなら、真に気の合った同志だけで、あくまでも民間の団体として、好むところに淫するとも、楽しみを改めたくない、というような清々しい、潔い主張が、新聞紙上の彼らの論評の中に一としてなかったことは、限りなく淋しかった。」
「たとえ、新美術院の展覧会に断じて出品せずと主張しても、それはむしろケチ臭い打算や党派心の方が目立つのが面白くない。」
「ことに不思議なのは、官権に拠っていた旧帝展の一派と対立して、布衣(官位のない人)の美術家たることを誇りとしていたらしい派から、新官僚美術院の主なる委員が、ジェネラシヨン・スポンタネ(自発的世代)として、しかも月足らず(早世児のように)で多数生まれたことである。彼らは宿年の同志に謀らずして、かかるトライゾン(裏切り)を、あたかも自由な行動であるかのごとく、平然として恥ずるところがないのだろうか。」
「僕はこのたびの事件を眺めながら、美術家の群は文人の群とは比べものにならぬほど、毎度ながら如才ないものだと感服した。」
「某画家はこのたびの挙を機として、在来の無鑑査を撤廃するのは不当であると述べていた。曰く、無鑑査撤廃に自分たちが反対するのは、それが既得権を侵害されるという意味ではない。美術一般に与えらるる「制作の自由」を故なくして奪還するものだから、自由の画家として抗議するのだ、と。しかし制作の自由を真に尊重するなら、初めから官権の下に立つ展覧会なぞに出品しない方が当然だ。
260 展覧会に出品する以上、無鑑査は撤廃されるべきだ。「それほど上手くもないのに展覧会だけはいつも入選する画家があったら、かえって軽蔑されていいだろう。」
そもそも芸術家は何らかの庇護者がいなければやって行けないのだろうか。17世紀のフランスのルイ14世(大王1638.9.5—1715.9.1)は文学者を庇護し、文人たちも王を阿諛した。彼らは技能と天分による自由の限界を弁えていた。
261 文部省の庇護がなければ、画家的商売は上がったりなのだろうか。今の文部大臣には芸術を解し、芸術を統制するだけの知識と趣味と力があるだろうか。(ない。)新美術院の委員たちは、新組織に迎合し、官権に追随し、犬馬の労を致す自由を自分たちに留保した。
美術にも文芸にも定見のない文相に、芸術統制に携わる資格はない。その文相に恭順な芸術家に、健全な方針はたてられない。
商品になりやすい制作に従事する芸術家ほど商人や政治家に近く、堕落しやすい。それに対して文人は融通の利かない頼もしい馬鹿野郎が多い。
セザンヌもモローも、生涯サロンの入選を夢見て果たせなかった。小説家フロベールは、レジョン・ドヌウル勲章の略綬をフロックの襟につけて悦んでいたそうだ。これは虚栄心の強いフランス人の恥ずべき弱点だ。ヴァレリーも、フランス翰林院(アカデミー)学士に当選する際に、各学者を訪ね歩き、清き一票を乞うたとのことだ。
262 官辺では美術だけでなく文芸も統制する意志があるとのことだ。文壇には明治以来一人一党の素地があり、平等な精神が行き渡っている。文人で大家と言われる者は、官権の庇護を受けたことはない。
以上 2020年9月8日(火)
資料
東京文化財研究所tobunken.go.jpに、『日本美術年鑑』に基づく1936年からの帝国美術院改組問題について資料が載せられている。否定論も肯定論も見受けられる。
ウイキペディアでは「日展」の項目で掲載されているが、概要が述べられているだけで、問題点の詳細は記述されていない。
辰野隆(ゆたか)1888.3.1—1964.2.28 仏文学者。東京帝国大学法科大学仏法科から帝大仏文科に再入学し、大学院卒業後講師になり、1921年、東京帝大助教授となり、2年間フランスに留学し、1923年帰国後、教授に昇進し、1948年定年退官した。東大の後輩に影響を与えたとのこと。戦時中は日本文学報国会理事。
以上 2020年9月8日(火)
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