2025年10月16日木曜日

保阪正康講演会「救国の宰相・鈴木貫太郎」20251015

 

保阪正康講演会「救国の宰相・鈴木貫太郎」20251015

 

 

感想

 

 

保阪正康は「歴史的事実だけでなく、心情を理解せよ」、「歴史学者は心情を理解していない」というが、それは言い過ぎではないか。歴史学者も民衆の心情を念頭に歴史を見ていると私は思う。また保阪には政治を動かす民衆という視点、それを治安維持法で弾圧するという権力批判の視点がない。上層部で取り仕切る政治のレベルしか見ていない。

 

保阪は現状の体制の肯定に基づき、現状の枠組みを与えられたものとして肯定する。より広い人権理念の枠組みが欠けている、ように感じた。現実的ではあるが。だから本会のような地域の名士鈴木貫太郎を顕彰することを目的とする商工会議所主催の郷土史的な集会(大河ドラマ「鈴木貫太郎」を実現する会発会式)の講師として選ばれたのだろう。

 

 

講演 司会 横倉 講師 保阪正康

 

鈴木貫太郎は慶応3年1867年12月24日(新暦1868年1月18日)から昭和23年1948年4月17日まで、80歳まで生きた。

 

本講演のテーマを3点に絞る。

 

1 なぜ鈴木貫太郎のような海軍軍人が天皇の側近(宮廷の官僚)になったのか。

2 鈴木貫太郎は天皇側近として終戦が一番の出来事であった。その悩みと歴史。

3 鈴木は本心を隠していた、芝居をしていた、ということを理解すべきである。つまり鈴木は現実的に対応した。自分の考えだけではやっていけない、軍をどう抑えるかに腐心した。鈴木の二枚舌を理解することが、歴史を知ることだ。

 

 

人間の心理を見ず、自分の政治的野心のために歴史を利用とする悪者がいる。それは歴史の冒涜だ。歴史を馬鹿にしている。皇国史観ではだめだ。教訓・知見を歴史から学ぶ必要がある。

 

 

1 昭和天皇の側近には海軍出身者が多い。斎藤実(まこと)、…。陸軍軍人はほとんどいない。その理由は海軍が国際的な目を持っていたからだ。

昭和5年1930年のロンドン軍縮条約で、日本の海軍は英米の7割を要求した。しかし海軍出身の天皇側近は、「それは日本の国力からして無理だ」と言った。「6.91でも高い数字である。」しかし軍令部の強硬派はごねて、それを天皇に上奏しようとした。軍令部の加藤寛治(かくじ)がごねて、天皇に帷幄上奏しようとした。それに対して鈴木貫太郎はそれをやめさせた。(加藤は)それを統帥権干犯だといった。当時鈴木貫太郎は侍従長だった。日本は英米を仮想敵国としていた。

 

この昭和5年1930年から11年1936年の2・26事件までの6年間に、浜口雄幸襲撃事件1930.11.14から始まり、既遂・未遂を含めて15件の暴力事件が起こった。鈴木貫太郎はそれに抵抗した。鈴木は天皇の側に立った。しかしこの事件以来海軍は人事で和平派を追放した。山本五十六は例外である。山本五十六は軍縮に賛成したが、残った。

鈴木貫太郎は口を挟めない立場にいた。鈴木は「侍従長とは男(おとこ)女中である」と言った。天皇の日常の世話をする仕事である。鈴木は昭和11年まで侍従長を勤めた。

鈴木は2・26事件で撃たれたが、命拾いした。「君側(くんそく)の肝(かん)を殺せ」と言われていた。妻の鈴木たか(1915年、鈴木は足立たかと再婚)が貫太郎の体に覆いかぶさり、軍人がとどめを刺すのをやめさせた。たかは東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)付属幼稚園の先生で、昭和天皇の教育係だった。足立たかは天皇にとって母親同然だった。

 

 

明治天皇は「日清戦争は私の戦争ではない」と主張したが、伊藤博文が説得し、表向きは「天皇の戦争」にした。日露戦争の開戦でも明治天皇は泣いたという。また大正天皇は漢詩が好きで、「渡り鳥は自由だ」と歌った。つまり自分は自由でないと言いたかったのだ。大隈重信内閣は「天皇名において」ではなく、日英同盟を口実に第一次大戦に参戦した1914.8.23。そして昭和天皇も平和を望んでいた。

 

 

2 昭和20年1945年4月7日、小磯國昭が首相をやめた。当時は重臣が首相を決めていた。鈴木は「もう77歳だからできない」と言った。鈴木は「軍人は政治に関与しない」と書かれた軍人勅諭1882に忠実だった。それは政治家の中に軍人強硬派が出て来る恐れがあるからだ。それで鈴木は断った。しかし天皇から「もう他にいない。頼む」と言われ、鈴木は引き受けた。軍は戦争を継続したがっていた。天皇は鈴木に首相を押しつけた。

 

昭和20年5月、ルーズベルトが死んだ。鈴木は米にメッセージを送った。「偉大な指導者だった」と。

 

7月26日、ポツダム宣言が公布された。軍はそれに反発した。鈴木は「ポツダム宣言を黙殺する」と連合軍に答えたが、それは本音ではなかった。しかしその「黙殺する」が「拒否する」と英訳された。「一考する」としたら軍が黙ってはいなかっただろう。そうなったら殺されるかもしれない。「拒否する」と訳されたことが原爆投下の原因と結びつけられる説もあるが、原爆投下は米の規定の方針だった。

8月9日、第一回御前会議。軍は断乎戦うというが、平沼らはポツダム宣言を受け入れるという。鈴木はそれに賛成するとは言えなかった。賛成すれば4:3になるのに、言わずに3:3とし、天皇に裁可を求めた。鈴木は天皇に「東郷外相の意見に賛成だ」と言わせた。もし、鈴木自分がポツダム宣言受け入れに賛成だとして4:3にすれば、クーデターになっていただろうからだ。

昭和20年4月からこれまでの間、天皇と鈴木との間には視線による関係―黙契があったと私は思う。それは活字にはなっていないが。

8月10日、国体護持について問い合わせた。

8月12日、それに対するバーンズ回答。「天皇と日本国政府の国家統治の権限は、降伏の瞬間から、連合国最高司令官の制限下subject to(従属するor制約される)に置かれる」

 

8月14日、御前会議を天皇が開いた。異例である。天皇はポツダム宣言を受け入れるべきだと言った。天皇は国体護持に自信があった。その根拠はないが。

8月15日、鈴木貫太郎は玉音放送が行われた後、天皇に内閣総辞職を奏上した。鈴木の長男の鈴木一(はじめ)によると、天皇の「鈴木ありがとう」の言葉に、79歳の鈴木は泣いたという。鈴木は一番の忠臣だった。

 

 

平成天皇にまつわる話

 

私はジャーナリスト半藤一利とともに雑談をしに皇太子(平成天皇)の所に行った。雑談は午前(or午後)7時から11時30まで続いた。天皇には雑談する相手がいないのだということが分かった。

 

天皇は私に質問した「満州事変の時に「戦線を拡大するな」と軍に言ったのに、なぜ軍は戦争を拡大したのか」と。

 

学者は資料しか見ない。鈴木貫太郎をドラマにして欲しい。

 

 

私は85歳だ。

調べるとどんな人でも好きになるものだが、東条英機は違う。軍には合理的な面と、生死しかない面とがあるが、東條には後者しかなかった。それに東条英機は他者を懲罰した。1941年、東條首相のために高齢の40歳にもなるのに、東條を批判した松前重義(しげよし1901-91)とともに2000人が召集されて戦死した。松前に懲罰したいがために2000人を道連れにした。松前は二等兵として召集された。軍人は天皇に嘘の報告をしていた。

 

ルーズバルトが「この(日本に対する)戦争に講和はない、この戦争で独日を民主主義に変える」と言ったところ、某米軍人は「政治で話がつかないときには軍が出るが、日本の潰滅は軍の仕事ではない。軍は政治に従属する」とルーズベルトに言った。

 

東條英樹「負けたと思ったときが負けだ」とは、絶対負けないという意味である。つまり死ねということだ。

 

以上

 

2025年10月9日木曜日

平野雄吾『パレスチナ占領』TBS荻上チキより

 

平野雄吾『パレスチナ占領』筑摩新書1056円 TBS荻上チキより

 

 

平野雄吾1981- 一橋大学大学院経済学研究科修士卒

 

 

感想

 

イスラエル国民の問題点は自己中心的であること。自分だけが被害者だという過去の思いから抜け出せないでいる。

 

 

パレスチナ人に対して差別的な司法制度

 

西岸では

 

・恣意的にパレスチナ人を逮捕・拘禁する。

・家屋の所有権をパレスチナ人には与えず、家屋を恣意的に破壊している。

・毎日イスラエル人による暴力が起き、一軒一軒と家が壊されている。(しかしそれは報道されない。)

・司法の弱体化 入植地での裁判でパレスチナ側に有利な判決が出たこともあって、ネタニヤフは「司法改革」を行い、司法判断を国会が覆せるようにした。

 

 

ハマスによるイスラエル民間人への無差別発砲・拉致とその後のイスラエル国内の反応

 

・2023年10月7日、ハマスは無差別に発砲した。

・10月7日直後、イスラエル国内の報道で(ハマス打倒・開戦への)異論はなく、異論があっても声が上げられなかった。

 

イスラエル国民は10/7直後はヒステリックで、反戦デモは禁止されていたが、やがて反戦デモが始まった。しかしデモ参加者は、「裏切者」と呼ばれ、「ガザでのジェノサイドは止めろ」というプラカードを持った男性に対して、50代の某女性が「ジェノサイドはホロコーストしかない」と言った。これは自己中ではないか。イスラエル国内のアンケでは「ガザの窮状を考えるべきだ」は2%にすぎない。

 

イスラエル国内ではガザの被害状況はほどんど報道されていない。西岸での占領についても報道されていない。西岸ツアーに参加したことがあったが、イスラエルの報道機関は左派系のハーレツの記者一人しかいなかった。

 

イスラエル人は皆が軍に入っているので、軍がガザのジェノサイドに関わっているとは認めたがらない。メディアもそれを報じたくないし、イスラエル国民も見たがらない。「ハマスの方が仕掛けてきた、私らは被害者なのだ」と思っている。

 

ガザ=ハマスと考え、ガザを破壊すべきだという人がいるが、それは教育などの影響である。

 

 

イスラエルにも国際協調派が存在する

 

・オルメルト前首相2006.5.4-2009.3.31「戦争をやめるべきだ、世界と共存すべきだ」とネタニヤフを批判している。

・左派系のマスコミ「ハーレツ」が存在する。

・反戦デモは続いているし、徴兵拒否やPTSDもある。

 

イスラエル軍への従軍取材の状況

 

10/7直後はガザに入れなくなったが、3週間後にまず米CNN、FOXや、BBCが入った。次に仏独の記者が入り、その後で私に従軍記者のオッファーがあった。

ガザでは砂利道ばかりで、民間の建物全てが破壊されていた。3台の車で行った。兵士に案内され、民間の住宅の隣にあるハマスの地下トンネルの穴を見せられた。取材はイスラエル政府に制御された。パレスチナ人はいなかった。

ガザ北部ベイトヒラ(10kmほど入ったところ)へ行った。

兵士A「ハマスは許せない。」兵士B「ハマスと民間人とは違う。」と一色ではない。

 

 

 

 

ガザの状況

 

ガザへの物資の支給について共同通信の某記者が手記を書いた。一日一食…

 

 

ハマスの状況

 

・ハマスにとって人質を全員解放したら、交渉材料がなくなり、すべてが終わりになる。

・ハマスによるロケット攻撃は1年間しかもたなかった。今ではスナイパーか路肩爆弾。

 

以上

 

2025年10月7日火曜日

高橋真樹『もし君の町がガザだったら』

 

高橋真樹『もし君の町がガザだったら』ジャーナリスト 20250917 TBSラジオ

 

 

1948年、国連がトルーマンの主導で、イスラエル・パレスチナを分割し、これまで2%しかなかったイスラエルが50%の領土を持つことになった。これは不当な分割案だった。宗主国イギリスは解決策を放棄していた。このため600万人の難民が発生し、ヨルダンやレバノンにも逃れた。それまでの難民は75万人だった。

 

 

しかし重要なことは、それ以前にヨーロッパから入って来ていたユダヤ系によるパレスチナ人に対する暴力が横行していたことだ。その性格は植民地主義であった。ユダヤ人はパレスチナ人に対して植民地支配者の如く振舞っていた。

 

 

シオニズム運動はユダヤ人が自発的に行っていた。その動機は宗教的ではなく世俗的だった。

 

シオニズム運動には、ヨーロッパ諸国にもユダヤ人を自国で受け入れたくないという事情があった。

 

 

 

1967年、第三次中東戦争 それまでにイスラエルは国土の8割を所有していたが、この戦争で、残りの2割も占領しつくし、その状態が今まで60年間続いている。つまりイスラエルは全土を占領してもう60年も経過し、その間植民地主義者としてふるまい続けているということだ。

 

それに関連して注目すべきことは、イスラエルはパレスチナの青年層のほとんど全てを逮捕し、拷問を加えているということだ。その目的は飼いならしである。抵抗しないように。手錠をかけて拷問している。

 

 

米民主党はもともと親イスラエルだった。

共和党も親イスラエルの原理主義キリスト教徒を支持母体としている。

ユダヤ系米人は今のイスラエルを批判している。親イスラエルのユダヤ人は一部の富豪ユダヤ人にすぎない。

 

1993年のオスロ合意は「いずれ」二国家にしようというもので、イスラエルによる占領状態は続いた。

 

2007年、ガザが完全に封鎖され、コンクリートも入らなくなった。水の浄化もできない。停電ばかりで、1日4時間しか通電しない。ローソクで火事がよく発生した。ゆっくり殺される状態が継続している。

 

西岸は完全に制圧された。

 

 

ピースボートでガザにホームステイした。

イチゴの輸出でもメイドインガザをメイドインイスラエルに変えられてしまう。

 

DVがある。占領により男のストレスが多い。収容所で暴力を受けたからだ。

 

パレスチナには子どもが多い。

8、9割は非○○

利用して○○だけ

 

 

 

 

高橋真樹『もし君の町がガザだったら』ポプラ社202507

 

 

感想

 

 

著者の生年月日は不明だが、「学生時代から30年経った」とあるから50代くらいか。

 

ガザはハマスが選挙で勝利したことを受けて、ハマスに資金や物資が渡らないようにという目的で2007年からイスラエルによって封鎖され、今年で16年になる。そのため、人々はイスラエルで出稼ぎできなくなり、支援物資に依存することしかできなくなった。またイスラエルは塀の上や空や海から銃撃を続け、多くの死傷者が出ていた。それがこの16年間のガザの日常であった。だからハマスが2023年10月7日にイスラエルに攻撃を仕掛けたのは何等不思議なことではない。

 

039 「テロ」という言葉は使わない。ハマスの側には「テロ」という言葉を用い、イスラエルの側にはそれを用いないのはおかしい。「テロ」ではなく「戦争犯罪」や「攻撃」という言葉を用いる。前者は非武装の民間人への暴力・攻撃を、後者は兵士や軍隊への暴力・攻撃を意味するものとする。

 

 

054 イスラエルが最初の4か月間2023.10-24.1にガザに落とした爆弾の量は、ロシアが2022年から2年間にウクライナに落とした爆弾の量の2倍以上だという。いかにアメリカがイスラエルに応援しているかが分かる。しかもガザの面積はウクライナの面積の1/1600しかないのだ。

 

063 イスラエル植民地主義者の暴言集

 

「人質解放のためなら、ガザの200万人の住民を飢えさせることなど正当かつ道徳的である。」(スモトリッチ財務相2024/8/5)

「ガザを完全に包囲しているので、電気も食料も水も燃料もなくなるだろう。我々は人間動物と戦っている。」(ガラント国防相2023/10)

 

「あの民族全体が有罪だ。民間人は知らなかったとか、関与していないというのは、全くでたらめだ。」(ヘルツォグ大統領2023/10)

「パレスチナ、もしくハマスの旗を掲げるものは、誰一人として地上に生存し続けるべきでない。ガザへの原爆投下は選択肢にある。(エリヤフ エルサレム問題・遺産相2023/11)

「我々は怪物と戦っている。これは文明の蛮人に対する戦いなのだ。」(ネタニヤフ首相2023/12)

 

 

感想 2025年10月1日(水)

 

 

 ひどい。これまでひどい、ひどいと聞いていたが、この本*を読んでいて本当にひどいということが分かった。正に21世紀における南アのアパルトヘイト、かつてのアメリカでの黒人への虐待、日本の朝鮮(堤岩里教会焼却虐殺事件)や台湾(霧社事件)そして満洲(平頂山事件、南京事件)での虐殺事件など、優越的地位に立って下等な植民地人を蔑視するという「文明人」による蛮行が、今現在でも行われているということだ。

 

一例を示そう。東エルサレムのシルワン地区にある女性団体シルワン・アットゥーリ女性センターAWCで働き、息子3人と娘1人を育てている母親のマナールさん。家の隣には入植者が住んでいる。嫌がらせや暴力が日常のことである。(2024年10月末インタビュー、*高橋真樹『もし君の町がガザだったら』ポプラ社202507)

 

106 「私たちの生活はずっと問題にさらされてきました。入植者から殴られたり、物を投げられたりするのはいつものことです。子どもが外で遊んだり、買い物をしたりするだけでも、入植者がからんできて、もめごとになります。そうなると、軍や警察は殴ってきた入植者ではなく、パレスチナ人を逮捕します。現在15歳の三男は、5歳の時に補導されました。理由は自転車で遊んでいるときに入植者に少しぶつかったからです。道路で遊んでいたら5000シェケル(21万円)の罰金を払わされたこともあります。遊ぶ場所が家のまわりの道路しかないので、それからは遊ぶ場所にも困りました。

 入植者は、人々が買い物に出るたびに、子どもを殴ります。私たち家族も何度も巻き込まれています。今24歳の長男が15歳の時、入植者からマシンガンで頭を殴られ、9針を縫うけがを負いましたが、警察はいっさい動きませんでした。22歳の次男が14歳だったとき、学校からの帰りに警察に逮捕されました。石を投げたという容疑でしたが、デタラメです。トラブルに巻き込まれないよう、私はほぼ毎日、学校に送り迎えしていたので。でも息子は、警察から「やったといえば出してやる」と言われ、こわくてウソの自白をさせられました。この時も5000シェケルの罰金を払わされました。警察には11日間拘束されたあと、10日間の自宅軟禁を言い渡されました。軟禁の間は、監視役として母親も家にいなければいけません。仕事や買い物にも行けずに大変でした。また遊び盛りの14歳の男の子を10日間も狭い家に閉じ込めておくのは、お互いにすごくストレスでした。私たちはただ安全に暮らしていきたいだけなのに、その安全を手に入れることさえできません。」

 

 

096 「アウトポスト」が問題。これはイスラエルでも違法とされていて、政府の許可なく勝手にパレスチナの村に入り、家を建てて住みついてしまう。過激で暴力的な人が多く、イスラエル社会の中でさえ恐れられてきた。

 

西岸ヘブロンのパレスチナ人の住む地域の道路にはネットが張ってあった。入植者が嫌がらせでうんちやおしっこをつめたペットボトルを上から投げ込むから、それが落ちてこないようにしていたのである。窓に石を投げられて割れたガラスで5歳の子どもがけがをした。入植者が梯子をかけて屋根に上り、「早くここから出て行け!」と怒鳴り散らしたり、銃撃したりすることもあった。他にもパレスチナ人の車を破壊したり、オリーブの木を倒したり、火炎瓶を家の中に投げ込んで放火したりと、違法な入植者による犯罪は後を絶たない。イスラエルの警察に訴えても、捜査も逮捕もしない。

 

 

メモ

 

129 世界人権宣言1948.12.10までは、白人や成人男性以外には基本的人権が認められていなかった。その基本的人権とは、思想や表現の自由、拷問の禁止、人間らしい生活をする権利などである。

 

135 2025年3月24日、ノー・アザー・ランドの監督ハムダン・バラルは、入植者のグループにリンチされて大怪我をし、救急車で運ばれるときに、さらにイスラエル軍に拘束され、翌日、治療もされることなく、手錠をつけられたままの状態で軍事基地の中に放置された。

 

146 国民国家の時代になっても、キリスト教徒は長年の差別感情から、ユダヤ人を同じ民族だと認めなかった。

 

153 スローガン「土地なき民に、民なき土地を」のごまかし、「民なき土地」などあるはずがない。ましてやパレスチナは「民なき土地」などではない。

 

 

 

144 歴史

 

 パレスチナにユダヤ人が集まった理由はいくつかある。

 一つは、ヨーロッパでユダヤ人が嫌われていたことである。ヨーロッパ人は15世紀~18世紀には*ユダヤ人をゲットーの中に閉じ込め、国民国家形成時にはユダヤ人を仲間として迎え入れなかった。

 

*ナチスもユダヤ人をゲットーに閉じ込めた。164

 

ドレフュス事件1894とシオニズム運動の開始 ユダヤ人のドレフュス大尉がドイツのスパイだとして仏軍の中でいじめられた(裁判で有罪とされた)。その惨状を見ていたユダヤ人のテオドール・ヘルツルは、聖書に書かれている通り、パレスチナはユダヤ人の土地なのだから、ユダヤ人はパレスチナに移住しようというシオニズム運動を起こした。彼はユダヤ人が迫害されないためにはユダヤ人が多数派である国をつくるべきだと考えた。

 

ユダヤ人はそれ以前にアメリカにも大勢が移住していたのだが、アメリカが移民を制限する1924ようになり、シオニズム運動は盛んになった。

165 パレスチナ大反乱1936~1939 人口が増えたユダヤ人は、パレスチナの村を襲い、村人を追放した。パレスチナ人はユダヤ人の移民を止めないイギリスに抗議して反乱を起こしたが、イギリスはシオニストと協力してこれを鎮圧した。

 

第一次世界大戦時にイギリスはアラブ人に対しては、トルコと戦えば「中東に」アラブ人国家を認めると約束し、ユダヤ人に対しては、パレスチナに民族的「郷土」を支持するとした。(1922年、パレスチナがイギリスの委任統治領になる。)

ところが第二次世界大戦後、イギリスは上記の約束を放棄し、その後はアメリカ主導の国連が担当した。国連は1947年に2国家分割案を示したが、それは領土的にユダヤ人にとっては非常に有利な案だった。アラブ人は怒り、1948年5月に第一次中東戦争となり、イスラエル側は苦戦したが、結局、アラブ側が敗れ、パレスチナ人の領土はさらに狭くなった192。そして西岸はヨルダンが領有し、ガザはエジプトが領有した。イスラエルは国家として承認されたが、パレスチナは国家として認められなかった。(1948年イスラエルが建国される。パレスチナ難民が発生(ナクバ))

 

第一次中東戦争の前にも、ユダヤ人は「圧倒的にユダヤ人の比率の高い国」を求めていたため、イスラエル建国宣言以前にパレスチナ人を追い出そうと虐殺を始めた。ユダヤ人は戦争以前に戦争以後と同数のパレスチナ人を追放した。これは国連決議案に違反する。(ナクバ法2011はナクバの日5.11を追悼することを禁じている。)

 

残念ながらユダヤ人はパレスチナに来た当初から大人しくしておらず、パレスチナ人に対して排外主義的で攻撃的だったようだ。

 

 1956年10月29日~11月6日、第二次中東戦争(スエズ戦争)エジプト対英仏イスラエル戦争。以英仏の軍事介入が失敗し、国連の介入で停戦。スエズ運河の国有化に反発した以がエジプト侵攻し、シナイ半島占領。10月31日英仏軍が介入し、スエズ運河を占領。国際世論の非難に会って、国連が停戦決議。英仏軍は12月に、以は翌年3月に撤退。

 

 1967年、第三次中東戦争ではイスラエル側が不意打ちして6日間で大勝し、シリアからゴラン高原を、エジプトからシナイ半島を領有し、西岸とガザを占領し、そこで入植活動=ジェノサイドを開始した。壁や道路封鎖などで西岸の閉鎖=ガザ化が進行した。

 

 1973年、第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争、十月戦争)では今度はエジプトとシリアが奇襲攻撃し、イスラエルは苦戦したが最終的に勝利した。1978年、米の仲介で和平したが、エジプトはイスラエルとはもう戦争しないと約束してシナイ半島の一部を返還してもらった。この時パレスチナ人のことは何も触れられなかった。*(このころイスラエルは核兵器を持った。石油輸出国機構が石油価格を釣り上げてオイルショックが起った。)

 

*キャンプ・デイビッド合意 1978年9月、カーター米大統領がエジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相を、米大統領の山荘であるキャンプ・デイビッドに招待し、1979年3月、エジプトとイスラエルは平和条約を結び、イスラエルはシナイ半島の一部を返還したが、パレスチナ自治については決裂した。アラブ諸国は猛反対し、サダトはジハード団によって暗殺された。(エジプトとイスラエルとの単独和平)

 

 

1982年6月、レバノン戦争(第五次中東戦争) イスラエル軍はパレスチナ・ゲリラのテロ活動拠点と看做したレバノンに侵攻し、レバノン南部にとどまらずベイルートも爆撃し、多数のアラブ市民を殺害した。この時イスラエル軍はクラスター爆弾を使用した。ベイルートは瓦礫と化した。これはウサマ・ビン・ラディンが9・11犯行声明で示した怒りの源の一つである。民兵組織ヒズボラもこの時生まれた。またイスラエル軍とそれに協力したキリスト教マロン派の民兵組織ファランジスト(ファランヘ党)は、ベイルート郊外のパレスチナ難民キャンプの民間人を虐殺した。イスラエル軍はシリア空軍も攻撃した。同年9月、PLOはベイルートからチュニスに本拠を移し、武装闘争を放棄した。

 

 アラファト1929-2004はもともと難民であった。

 

1956年、アラファトはクウェートでファタハを結成し、1963年、シリアに迎えられ、1966年、ヨルダンからイスラエル軍兵士を地雷で殺害した(サム事件)。エジプトのナセルからパレスチナ問題の全権に委任され、1969年、PLO議長となった。ヨルダンから追放され、レバノンに移る。1983年、レバノンから追放され、チュニスに移る。1985年、ヨルダンと和解。1988年、ヨルダンがパレスチナ領有権を放棄し、アラファトは同年11月、パレスチナの独立を宣言した。1989年、大統領に。2000年9月、(第二次)インティファーダ運動が起こり、自爆攻撃が続く。2001年、イスラエルによりアラファトのいるラマラのパレスチナ議長府が包囲された。2003年3月19日、米以の圧力の下で、和平推進派のアッバースを初代首相に任命するも、9月6日、アラファト支配下の安全保障部門を譲渡されないアッバースが辞表を提出。アラファトはポロニウム210で毒殺された。

 

アラファトはヨルダンやレバノンでイスラエルに対するゲリラ活動を行った。イスラエルはそれを「テロ」だとし、その仕返しにパレスチナの村々を襲った。一部のゲリラ組織はハイジャック事件を起こし、国際社会からも「テロ」とみなされた。

 

 1987年、インティファーダ(第一次)という抵抗運動が起こった。子供までがイスラエル軍の戦車に石を投げつけた。第一次インティファーダは1993年(オスロ合意)まで続いた。イスラエル軍は子どもを銃撃し、子どものひじの骨を折り、逮捕・拷問した。この間に1000人以上が死に、逮捕者は数万人に上った。世界の人々の目はイスラエルからパレスチナに向けられた。そういう抵抗運動の中からハマスが軍事部門を創設した。当時の武器は火炎瓶だった。PLOはチュニジアにいたが、ハマスはパレスチナで頑張った。

 

1992年、ラビンはイスラエルの首相になった。

1993年、ラビンはクリントン米大統領の仲介で、オスロでPLOのアラファトと和解し、一部領土(ガザと西岸のA地区)を返還したが、ベギンはその後暗殺された。

 

アラファトはチュニジアからパレスチナに戻り、自治政府を作った。1996年の選挙でアラファトは初代大統領となった。自治政府は西岸を拠点とし、「暫定」自治を始めた。

しかしこの和解は、アラファトが交渉相手と認められただけで、パレスチナ人にとって実質的な利益は何もなかった。国家承認もされず、土地の権利も認められず、占領は継続され、難民問題、入植地問題、エルサレム問題は放置された。

 西岸にABC区域割ができたのもこのころだった。A区域は西岸の18%に過ぎなかった。ガザとA区域を合わせた面積は、1948年以前のパレスチナ全体の4%にすぎない。

さらに悪いことには、自治政府はイスラエルの下請けとなってパレスチナ人の抵抗勢力を取り締まった。

またイスラエルは自治政府に対する国際社会からの運営資金を仲介し、不都合な時には自治政府の公務員給料などを止めた。

西岸では(パレスチナ人の居住区域)エリアが(高く長い壁と道路封鎖バーで)分断され、検問所や入植地が増えた。

 

194 1993年にラビン首相がガザと西岸のA地区を返還したことに対して、イスラエル人は怒り、和平に反対した。

 

第三次中東戦争1967以降、狂信的宗教右派が台頭した。彼らは「戦争の勝利は神の意志であり、ゴラン高原やシナイ半島や西岸やガザなどの占領地の獲得は、かつて神がユダヤ人に与えた土地を返してもらったのであり、それは占領地ではなく解放地であると考えた。そういう考えのもとにイスラエルは西岸での入植地を増やしていった。そしてラビンは神に対する裏切者だとして、1995年、宗教右派の青年に暗殺された。

 

196 2000年9月、右派政治家のシャロンがエルサレム旧市街のイスラム教聖地を訪問し、ここはすべてイスラエルのものだと宣言した。怒ったパレスチナ人の若者はイスラエル軍に投石し、それに対してイスラエル軍は発砲した。こうして第二次インティファーダ2000.9-2005が始まった。

2001年、シャロンは首相になった。

 

2001年9月、アメリカで「同時多発テロ事件」が起き、ブッシュ大統領は「テロとの戦い」と称して、アフガニスタンやイラクを攻撃した。そのためパレスチナ人の抵抗への世界の共感は広がらなかった。

そういう中でハマスはイスラエルのバスや町中で自爆攻撃を始めた。2002年、イスラエル軍はパレスチナの町に戦車やヘリで攻撃し、多くの一般市民を逮捕・殺害した。第二次インティファーダでのパレスチナ人死者数は3000人以上で、その多くは一般市民だった。一方イスラエル側の死者は1000人だった。

 

 

2005年、ガザ地区全域でのイスラエル軍の駐留と全イスラエル人8500人による入植を止めて撤退した。ただし、ガザ地区の制空権と制海権は維持した。また西岸の小規模な入植地も解体された。

 

これはシャロン首相の決断によるものであった。シャロン首相は2004年2月、ガザ地区の全21か所、西岸の4か所の入植地(カディム、ガニム、ホメシュ、サヌル)の解体方針を示した。シャロンはインティファーダや自爆テロに懲りていた。

しかしシャロン自らが党首を勤める右派のリクード党はそれに反対した。ネタニヤフ元首相が反対した。入植者も反対した。

2004年5月2日、ガザでイスラエル人入植者の母子5人がパレスチナ人の男に殺されたが、ちょうどこの日、リクード党の党員投票が行われ、60%がシャロン案に反対した。しかしイスラエル世論はシャロンを支持し、シャロンはシャロン案を閣議決定し、国会を通過させた。入植者には補償金を出した。

ネタニヤフは閣僚を辞任した。8月10日、テルアビブでシャロンの方針に対する大規模な反対集会が開かれたが、イスラエル国防軍IDFは1週間かけて入植者を強制排除した。

 

 

イスラエル人の合計特殊出生率は2人強であるが、パレスチナ人のそれは6人から20人で、いずれパレスチナ人の人口がユダヤ人よりも上回ることになる。

ユダヤ人入植者数はガザでは8500人であり、西岸では23万人で、これに東エルサレムを加えると40万人である。シャロンはガザを捨て、西岸の6大入植地を維持したのである。シャロンは入植地の拡大ではなく再開発だとしている。

シャロンやオルメルトはリクード党を離党し、カディマという新党を作った。

 

 

2006年6月、ガザ侵攻。7月、レバノン侵攻。

 

 

西岸のホメシュでは入植者は排除されても戻って来た。また地主のパレスチナ人(ブルカ村)は立ち入りを禁止された。

 

 

2022年12月、ネタニヤフ政権は西岸やゴラン高原での入植拡大方針を打ち出し、2023年3月、クネセト(国会)で、シャロンの2005年の撤退計画を改め、西岸の4入植地の再建を可決した。これに対して欧米は批判し、パレスチナ大統領府も「全ての入植地を違法とする国連安保理決議2334に違反する」と非難した。

しかしネタニヤフ政権は2023年5月18日、ホメシュ入植地の再建に着手した。軍は建設工事を違法としたが、ガラント国防相やスモトリッチ財務相はそれを認めた。そして軍も結局それを認め、裁判所もそれを認めた。

2024年6月17日、「ユダヤの力」党の党首イタマル・ベン・グヴィル国家安全保障相は、ガザでの再定住推進議員連盟を結成し、「ナハラ運動」のダニエラ・ヴァイスは民族浄化の遂行を要求した。

 

 

 

200 2006年1月、ガザと西岸で自治政府の総選挙が行われたが、世界やハマス自身の予想に反してハマスが過半数の議席を取った。ファタハによるオスロ合意は不人気だった。ハマスは難民の多いガザでは人気があった。オスロ合意は難民問題を先送りし、パレスチナ国家の創設を優先したからである。(上述ではそれでも国家承認されなかったとあるが。)

 

ところが欧米以はハマスをテロ組織に指定し、欧米はハマスの政権への関与を認めず、パレスチナ支援を止めた。そして米はファタハに武器を供与し、ハマスと戦うよう仕向けた。

 

2007年、ファタハが西岸を支配し、ハマスがガザを支配することで住み分け、自治政府は分裂した。イスラエルはパレスチナが分裂していることを和平交渉ができない口実とした。イスラエルはガザを軍事封鎖した。軍事封鎖は集団懲罰であり国際法違反であるが、アメリカはこの封鎖を支持した。エジプトもガザの南部の封鎖に協力した。

 

202 封鎖後の2008年、2009年、2012年、2014年、2021年に、イスラエル軍はガザに対して大規模攻撃をしかけ、子どもを含む多数の犠牲者が出た。

 

2018年、ガザで「帰還の大行進」という非暴力デモが毎週行われるようになった。数千人から数万人のガザ市民がイスラエル近くの塀の近くに集まったが、この平和的なデモに対してイスラエル軍は狙撃した。2018年5月14日のイスラエル建国記念日には50人以上が殺害され、2700人以上が負傷した。行進は2019年まで2年近く行われた。若者は絶望していた。しかし国際社会は沈黙していた。

 

 

 2023年10月7日、ハマスは壁を乗り越えてイスラエル側を攻撃し、1200人の民間人を殺害し、251人を人質にした。

 

 

感想 

 

パレスチナの歴史を読んでいて、ウサマ・ビン・ラディンの9・11攻撃の犯行声明も、レバノンの民兵組織ヒズボラの結成も、ガザのハマスの結成も、皆イスラエルのアラブ人に対する攻撃が根源となっていたことが分かりました。

 

ウサマ・ビン・ラディンはその反抗声明の中で9・11攻撃の理由の一つとして、1982年、イスラエルがベイルートを激しく空爆して瓦礫と化し、多数のアラブ市民を殺害したことを挙げているし、民兵組織ヒズボラの結成もこれが原因であった。そしてハマスもイスラエルによるパレスチナ人の追放、閉鎖、銃撃への抵抗運動の中で生まれたものであった。

 

その根をさらにたどっていけば、それは欧州国民がユダヤ人を排斥したことであった。また日本の明治以降の周辺民族に対する侵攻だって、欧州列強の東洋侵攻に恐れをなしたことが原因であったから、本当に欧州人は罪深い人たちだ。文明や文化の発展はろくなことがない。金ずくめできらびやかな欧州の王宮は、植民地主義罪悪の結晶である。何とも情けない限りだ。

 

以上

 

2025年9月30日火曜日

原勢二『満鉄撫順炭鉱と平頂山事件』新人物文庫2010(原題『芒なり満鉄――追憶の満鉄撫順炭鉱長久保孚』新人物往来社2000)

 

原勢二『満鉄撫順炭鉱と平頂山事件』新人物文庫2010(原題『芒なり満鉄――追憶の満鉄撫順炭鉱長久保孚』新人物往来社2000)

 

 

感想 2025年9月30日(火) 本書は満鉄撫順炭鉱次長の久保孚と著者原勢二とが、ともに金属鉱業工学の専門家という共通点から、著者が久保孚の満鉄撫順鉱山での業績と、平頂山事件の首謀者という濡れ衣を着せられて死刑にされた悲劇とに感じ、久保の追悼とともに冤罪の問題提起も込めて書かれたものと思われる。

 

 

しかしその表現方法は、歴史学的な資料の積み重ねというよりも、やや感情的な同情の色合いが濃い。その点についていくつか指摘すると、

 

 

・歴史小説風の語り口 もっともらしく聞こえるが、信憑性があるのか心配になる。また参考資料が巻末に掲げられているが、その著者名、発行所名、参照箇所が明示されていないため、記述の証拠の確認ができない。

 

 

・平頂山事件が撫順以外の日本人には知れ渡っていなかった理由

 

「陸軍が秘密にせよと緘口令を敷いていた風でもない。事件があまりにもおぞましいから伝わらなかったのだろう」というのだが、根拠に乏しい。それでいて「撫順の日本人は皆知っていた」とする。それなら撫順以外の日本人が知らなかったはずはないのだが。

その事情を井上久士『平頂山事件を考える』012は資料をもとに明らかにしている。陸軍の資料には「秘密にせよ」とはっきり記録に残っているのである。緘口令が敷かれていたのである。

 

 

・川上精一大尉は外出中で事件に関与せず、井上清一中尉の独断による一時的気分での犯行説

 

この点でも上記の井上久士は、当時の撫順で発行されていた日本人向けの新聞・雑誌資料を調べることによって、中尉独断説という風説を覆した。

 

 

・本書で日本側資料の代表として川上精一大尉の娘婿田辺敏雄の著書『追跡平頂山事件』を上げている320が、親族関係にも気をつけるべきである。これも井上久士が指摘している。

 

・証言には意図的であるかどうかにかかわらず、嘘や記憶違いがあるから、その意味でも資料による裏付けは重要である。また井上久士は写真も掲載し、新聞・雑誌の記事を補強している。

 

 

・久保孚は有罪か無罪か 久保孚は通訳・于慶級の1956年の供述調書044によれば、事件前の責任者会議に出席している。但しその時久保孚は川上精一大尉の全員虐殺の方針には反対した046。久保孚本人はこの会議について触れていないが。045

 

 

BEATE SIROTA GORDON “The Only Woman In the Room"

  BEATE SIROTA GORDON “The Only Woman In The Room A MEMOIR OF JAPAN, HUMAN RIGHTS, AND THE ARTS”  University of Chicago Press 2014,  Origina...