帝都を震撼せる二・二六事件の全貌 1936年、昭和11年4月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988
感想 これは文芸春秋編集部が、主に政府=軍部(戒厳司令部)から取材して独自に作成した、二・二六事件についてのまさに「全貌」を報告したものである。詳細でよく纏まっている。しかし、各所に当時の日本人の無批判な心情や、文芸春秋社の政府寄りの報道態度が読み取れる。
要旨
編集部注
334 この一文は「市民の覚え書き」として発表された。
本文
二・二六事件は、三重臣の生命を奪い、非常時日本の心臓であり頭脳ともいうべき帝都の都心を4日間、治安を紊り、騒擾の巷と化し、500万市民に迷惑をかけた「ショッキングな出来事」である。
岡田内閣は悲劇的な終末を遂げた。財界の動揺、海外信用問題、「人心の安定」、今後の政局への影響など、深刻である。「吾らが最も遺憾とするは、我らが日頃絶大な信頼を置き、その厳正なる軍紀を無上の誇りとする帝国陸軍の将校から、相策謀して軍律を破り、かかる不逞の行為をあえてする徒輩を出したのみか、かしこくも勅命に叛き奉るの逆賊を出すにいたったことである。」(これまでにも血盟団事件1932.2-3や5・15事件1932.5.15など同種の事件がいくらもあったではないか。なぜここでそんなに大袈裟にびっくりするのか。)
335 以下戒厳司令部発表に基づいて事件の経過を述べる。
麹町区南部、即ち永田町、霞ヶ関、日比谷の一部は、1936年2月26日早朝から交通が遮断された。武装兵が警戒している。恐れ多くも二重橋前の広場は、人影もなく一面の雪で、松の間に兵の姿が見える。群衆は警戒線や前線へ殺到し、立ち去らない。ラジオは東西株式取引所立会停止を報じ、昼間の演芸放送は中止された。
銀座の人通りも数えられるほど少ない。映画館、劇場の前には、閉場時間繰り上げの札が掲げられ、夜の銀座のカフェーのネオンは消えたままだ。
26日、夜8時15分、陸軍省は次の発表をした。
本日午前5時頃、一部青年将校らは左記の個所を襲撃せり。
首相官邸 岡田首相即死
渡辺教育総監私邸 教育総監即死
牧野内大臣宿舎(湯ヶ原伊東屋旅館) 牧野泊不明
鈴木侍従長官邸 侍従長重傷
高橋大蔵大臣私邸 大蔵大臣重傷
東京朝日新聞社
これら青年将校の蹶起せる目的は、その趣意書によれば、内外重大危機の際、元老重臣、財閥、官僚、政党等の国体破壊の元凶を芟除(さんじょ)し、もって大義を正し、国体を擁護開顕せんとするにあり。
右に関し、在京部隊に非常警備の処置を講ぜしめたり。
336 これはラジオで伝えられ、街には号外のベルが鳴った。
初めの三日間、新聞とラジオは十分にその機能を発揮しなかったが、「悪性」の動揺は見られなかった。
岡田内閣は事実上内閣の機能遂行不能となった。26日、宮中閣議を開き、後藤内相が総理大臣臨時代理を兼任し、上奏御裁可の上発布されたが、同夜宮中閣議の結果、内閣は総辞職し、後藤総理大臣臨時代理は、全閣員の辞表を取りまとめ、27日、午前0時、これを闕下(けっか)に奉呈した。
27日、高橋蔵相は薨去し、町田商相が大蔵大臣を兼任したが、兼任蔵相の辞表を奉呈した。
閣員一同は、後継内閣の決定まで国務を見よとの御沙汰を拝した。岡田内閣は、粛正選挙*の産婆役を務め、その総辞職は早晩予想されていた。
*1920年代から1930年代にかけて行われた。普通選挙法制定後の公明正大な選挙の実施を目指して行われた選挙浄化運動。後藤新平は買収や贈収賄を防ぐための啓蒙運動を展開した。濱口内閣は選挙革正審議会を設置した。五・一五事件でこの運動は頓挫した。
反乱軍の数は数百で、首相官邸や新議事堂等を占拠していた。
…戦時警備令が下った。
26日
26日午後7時、東京警備司令部発表
一、本日午後三時、第一師管(に)戦時警備令を下令さる。
二、戦時警備令の目的は、兵力をもって重要物件を警備し、あわせて一般の治安を維持するに在り。
三、目下治安は維持されつつあるをもって、一般市民は安堵して各自の業に従事せらるべし。(大上段な言い方だ。)
26日午後10時25分、東京警備司令部発表
告諭 今般第一師管に戦時警備令を下令せられ、本職はここに大命を奉じ、軍隊の一部を所要方面に出動せしめたり。今回の出動は、帝都の治安を維持し、緊要なる物件を掩護する目的に出ずるものなり。軍隊出動の目的は、以上のごとし。本職は、官民たがいに相戒め、謡言を慎み、秩序の維持に協力せんことを切望す。
昭和11年2月26日
東京警備隊司令官 香椎浩平
337 26日午後8時、海軍省発表
一、第一艦隊、第二艦隊は各東京湾および大阪湾の警備のため、回航を命ぜられ、それぞれ27日入港の予定。
二、横須賀警備戦隊は東京港警備を命ぜられ、26日午後、芝浦に到着せり。
さらに帝都の治安を厳重にし、人心の安定を計るため、26日夜、宮中枢密院会議は、東京市に戒厳令を布くことに決定し、27日午前2時半、上奏御許可を仰ぎ、官報号外で公布された。戒厳司令官には東京警備隊司令官香椎浩平中将が任ぜられ、戒厳司令部に九段の軍人会館が充てられた。
戒厳令とは、憲法第14条に規定された天皇大権であり、明治15年8月の太政官布告にある戒厳令にその要件と効力が定められている。
それによれば、戦時若しくは事変に際し、兵備をもって全国若しくは一地方を警戒することで、時期に応じ、地域を区画して布告する。
平時、一定地方に臨時戒厳を要する場合は、その地の司令官が上奏して命を請い、もし命を請う道(方法)がない時は、司令官が直ちに戒厳を宣告できる。(軍隊が戒厳令を自由に宣告できるという恐ろしいものだ。)
戒厳令が布かれると、全ての地方行政事務(警察など)、司法事務は停止され、軍司令官がこれに代わって事務を執る。平時の場合は、地方行政事務、司法事務の軍事に関係ある件だけ、軍司令官に委ねる。今回の場合は、関東大震災の場合と同様、戒厳令の一部適用で、適用条項は次の通りである。
戒厳令第29条 臨時地域内においては、地方行政事務および司法事務の軍事に関係ある事件に限り、その地の司令官に管掌の権を委するものとす。故に地方官、地方裁判官及び検察官は、その戒厳の布告若しくは宣告ある時は、速やかに該司令官に就いてその指揮を乞うべし。(「布告」は明治19年以前の法律・勅令・省令。「宣告」は刑事裁判の判決。)
戒厳令第14条 戒厳地境内においては、司令官、左に記列の諸件を執行するの権を有す。但し、その執行より生ずる損害は要償することを得ず。(代償を要求することができない。一方的!)
第一 集会若しくは新聞雑誌広告等の「時勢に妨害ありと認むる」者は、停止することを得。(恣意的!)
第三 鉄砲弾薬兵器火具その他危険に渉る諸物品を所有する者ある時は、これを検査し、時機により押収すること。(29日、情況の必要上戒厳令の適用範囲が拡大され、第14条中の7項目全文を適用するようになった。後述。)
27日
27日朝公布された戒厳令につき、香椎司令官は、同日午後8時15分、左の告諭を市民に発した。
告諭 今般の戒厳令の目的は、帝都附近全般の治安を維持し、緊要なる物件を掩護すると共に、赤系分子等の妄動を未然に防遏(あつ)するの目的に出ず。(彼らは「赤」が大嫌いのようだ。)ここに本職は大命を奉じ、兵力をもって戒厳地境を警備し、地方行政事務及び司法事務の軍事に関係あるものを管掌せんとす。地境内官民よくその理を弁え、協力一致深く言動を慎み、本職を信倚(い)し(いやだ)、もって戒厳の施行をして遺憾なからしめんことを期せよ。
昭和11年2月27日
戒厳司令官 香椎浩平
338 警視庁は香椎司令官の指揮下に編入された。
「かくて平時帝都の護りたる警視庁も、香椎司令官の指揮下に編入され、機を得たる処置と一糸乱れざる統制によって市民に安んぜしめ、刻一刻に発表される厳たる司令部の公表に、市民に限りなき力強さを覚えしめるのであった。」(文芸春秋編集部は買収されているのか。全く批判的精神がない。)
27日戒厳司令部発表第1号
一、戒厳司令官隷下の部隊は、近衛師団ならびに第一師団の平時在京部隊のほか、昨26日上京を命じられたる近在部隊の一部にして、これらの部隊はすでに26日夜半着京せり。
二、目下東京市内は平穏にしてその後変化なし。
なお司令部は27日午後9時半、ラジオで次の発表をした。
目下東京市中において種々流言が行われて、御心配の向きもあるようでありますが、戒厳司令部は必要の軍隊をもって厳重に警備し、帝都の治安は確実に維持せられておりますから、いたずらに風説に迷わされぬよう御注意下さい。
この日(27日)、政界の巨頭文武要職の往来は激しかった。
午前9時半、内務省では唐沢警保局長以下各課長は、帝都の治安ならびに全国の治安確保について慎重な協議を遂げた。(お上任せ。)
午後1時15分、明倫会総裁田中国重大将は、九段偕行社*に止宿中の真崎、荒木大将等の軍事参議官を訪問し、事態の収拾に関し意見を交換した。田中大将に続いて、加藤寛治大将も偕行社を訪れた。
*偕行社 公益財団法人。戦前の陸軍の元将校・士官候補生・将校生徒・軍属高等官および、陸自・空自の元幹部の親睦組織。1877年、陸軍将校の集会所・社交場・迎賓館として九段偕行社が設立された。
標語「英霊に敬意を。日本に誇りを。」
目的「戦没者及び自衛隊殉職者等の慰霊顕彰、安全保障等に関する研究と提言、自衛隊に対する必要な協力、並びに定期刊行誌『偕行』等により、「防衛基盤」の強化拡充に寄与し、もって我が国の平和と福祉に関する「国政の健全な運営」の確保に資する。(越権行為。シビリアンコントロール逸脱行為)
外務省は外交関係の悪化を防止するため、在外各使臣に重要訓電を発し、謡言の流布によりわが国際的地位の悪化するのを防ぐ手段を講じた。
株式取引所は休業したが、銀行は平常どおり営業し、この夜、銀座、新宿、浅草の劇場映画館はいつもの和やかさに立ち返っていた。(本当か)
27日の深夜ころから麹町区南部の警戒は厳重を加えた。昼間、部分的に許されていた交通が閉鎖され、武装兵が包囲した。
28日
339 (28日)午前10時、軍事参議官東久邇宮殿下、秩父宮殿下、高松宮殿下、伏見元帥宮殿下、久邇宮殿下、梨本宮殿下、竹田宮殿下など軍籍にある皇族殿下が参内し、後藤臨時首相代理、川島陸相、湯浅宮相らも参内し、会同懇談した。
この日(28日)終日、閣僚は宮中に参集し、随時臨時閣議を開き、赤木内務次官や唐沢警保局長から治安状況を聴取し、他方、陸軍首脳部と連絡を取りながら、対策を協議した。
地方陸軍も、早朝から軍事参議官会議を開き、海軍も会議を開いた。後藤臨時首相代理は、荒木大将と会見し、町田商相は、湯浅宮相と会見した。
陸軍省は、故渡辺教育総監の後任に、教育総監代理として、中村孝太郎教育総監本部長をあてた。
夕方、警戒はますます厳重になり、警戒区域から避難民が出てきた。市民には26日発表以外何も明らかにされていなかったが、28日夜10時半、戒厳司令部は次の発表をした。
戒厳司令部発表第三号
一、一昨26日(つまり今は28日)早朝騒擾を起こしたる数百名の部隊は、目下麹町区永田町付近に位地しあるも、これに対しては戒厳司令官において適応の措置を講じつつあり。(委細を問うな。)
二、前項部隊以外の戒厳司令官隷下の軍隊は、陛下の大命を奉じて行動しつつありて、軍規厳正士気また旺盛なり。(こちらが優位に立っている。)
三、東京市内も、永田町附近の一小部分以外は平静なり。(反乱軍の勢力は弱小だ。)またその他の全国各地は何らの変化なく平穏なり。
帝都の中央での皇軍と皇軍との武装対峙のニュースは、国民に「悲痛」に近い感情を与えたが、あくまで軍司令部を信頼する市民には、表面的に何らの動揺も起こらなかった。
340 この日は、司令部が反乱軍の説得を試みた日であったが、その甲斐なく、彼らは奉勅命令に抗して賊となった。
「事ここに至る、司令部が恩情を棄てて、断固武力解決を決意したのも当然である。」(軍への忖度報道)
後日戒厳司令部が談話を発表したが、それによると、「原隊復帰を説得し、これに従うような形勢を示したことが数回あったが、すぐ前言を翻し、ついに奉勅命令に叛旗を翻してしまったことは遺憾に堪えない。
彼等に率いられた兵士達は何も事情を知らぬ者が多く、ただ将校の命のままに率いられて出て行った者が大部分で、彼等を叛徒と見ることは忍びない。」とのことである。
29日
戒厳司令部29日午前6時発表
「2月26日蕨起した部隊に対して、それぞれ固有の所属に復帰するよう、各上官から再三再四説諭したが、彼らは聞き入れなかった。蕨起部隊に対する(強行)措置を遅らせた理由は、流血の惨事を免れず、被弾地域が宮城や皇王族邸や外国公館に及ぶ恐れがあるからだった。また皇軍が互いに相撃つことは、皇国精神上忍び得ない。しかし、治安維持を確保できない状態を何日も引き伸ばせない。上奏し勅を奉じ、原隊への復帰命令を昨日(28日)伝達したが、彼らは聴かず、ついに勅命に抗した。そこでやむなく武力をもって事態の強行解決を図ることにした。兵火を交える場所は、麹町区永田町付近に限定される。一般民衆は流言蜚語に惑わされず、その居所に安定することを希望する。」
341 「司令部の苦衷の程が察せられるではないか。」
戒厳司令部は次の市民心得を発表した。
「本日(29日)、麹町区南部付近で多少危険が起こるかもしれないが、その他の地域内は危険の恐れがないと判断できる。市民は戒厳令下の軍隊を信頼し、沈着冷静に司令の指導に服し、次の注意を厳守せよ。
一、別に示す時期まで外出を見合わせ、自宅に在って、特に火災予防に注意せよ。
二、特別に命令のあった地域のほかは、避難してはならぬ。
三、適時正確な情況や指示をラジオその他により伝達するから、流言蜚語に迷わないようにせよ。
戒厳司令官 香椎浩平」
29日、戒厳司令官告諭を以って、戒厳令第14条の全文が適用されることになった。その内容は次の通りである。
戒厳令第14条 戒厳地域内に於いては、司令官(は)、左に記列の諸件を執行する権を有す。但しその執行より生ずる損害は、要償することを得ず。
第一、集会若くは新聞雑誌広告等の「時勢に妨害ありと認むる」者を停止すること。
第二、軍需に供すべき民有の諸物品を調査し、又は時機に依りその輸出を禁止すること。
第三、鉄砲弾薬兵器火具その他危険に渉る諸物品を所有する者ある時は、これを検査し、時機により押収すること。
第四、郵便電報を開緘し、出入の船舶及び諸物品を検し、並びに陸海通路を停止すること。(秘密も守られない。)
第五、戦状により止むを得ざる場合は、人民の動産不動産を破壊毀焼すること。
第六、合囲地境内に於いては、昼夜の別なく、人民の家屋建造物船舶中に立ち入り検察すること。
第七、合囲地境内に宿泊する者ある時は、時機によりその地を退去せしめること。
342 29日朝、戒厳令下にある区域の交通は、全部停止を命ぜられた。
午前5時から次の各線が運転を中止した。
山手線と赤羽線は全部停止。
東海道線は、電車は川崎まで停止、列車は横浜まで停止。
中央線は、電車は吉祥寺まで停止、列車は八王子まで停止。
東北線は、電車は川口まで停止、列車は大宮まで停止。
その他これと連絡する郊外電車、省線内外とも市電、市バス、青バスは全部運転停止。
各学校は休校。放送プロ*は停止。(*プログラムか)
「戒厳司令部発表
一、掩護物を利用し、難を避けること。
二、低いところを利用して避けること。
三、屋内では、銃声のする反対側にいること。
四、立ち退き区域、市電三宅坂から赤坂見附、溜池、虎ノ門、桜田門、警視庁、三宅坂の結び線は戦争地域になるから立ち退きのこと。
五、立ち退き随意地域、半蔵門、前警視総監官舎から弁慶橋をつなぐ外郭を行き、黒田侯邸から大倉商業、霊南坂上、虎ノ門をめぐる区域。
六、その外郭は交通停止区域。」
避難民は赤坂仲之町小学校、氷川小学校、赤坂市民館、三会堂、麹町小学校等に避難し、「秩序を乱す者は一人だにない。」
立ち退き区域内には、閑院宮御殿をはじめ、次のような重要建造物があった。
343 陸軍省、参謀本部、外務省、警視庁、内務省、文部省、帝室林野局、特許局、新議事堂、鉱山監督局、首相官邸、文相官邸、鉄相官邸、蔵相官邸、外相官邸、農相官邸、拓相官邸、陸相官邸、内相官邸、府立一中、ドイツ大使館、イタリア大使館、華族会館等。
司令部は、叛軍将校は許されないとしたが、何も知らぬ兵を賊徒と看做すことは忍びないと思い、攻撃準備を整えつつ、説得を継続した。
朝から数台の飛行機が説得ビラを撒いた。被占領地区にタンクで説得ビラを撒いた。ラジオが叫び、アドバルーンが上がった。それには「勅命下る。軍旗に手向かうな」とあった。
戒厳司令部(29日)午前10時発表
一、第一師団方面においては叛乱軍に対し戦車を派遣し、説得ビラを撒布せり。
二、飛行機をもってする兵の説得ビラの撒布は、依然継続されつつあり。
三、今朝非難を命ぜられ退去したる者の財産は、戒厳部隊の進出にともない、憲兵および警察官をして逐次保護を任ぜしめつつあり。
四、幸いにして只今まで兵火を交えず。
ラジオによる説得は、拡声器で兵に訴えたもので、その内容は、全市民もこれを聞いて感涙した。その全文は、以下の通りである。
「 兵に告ぐ
ついに勅命が発せられたのである。すでに天皇陛下の御命令が発せられたのであるが、お前たちは上官の命令を正しいものと信じ絶対服従して誠心誠意活動してきたのであろうが、すでに天皇陛下の御命令によってお前たちはみな原隊に復帰せよと仰せられたのである。この上お前たちがあくまでも抵抗したら、それは勅命に反抗することになり、逆賊とならなければならない。正しいことをしていると信じていたのに、それが間違っておったと分かったならば、いたずらに今までの行きがかりや義理上からいつまでも反抗的態度を取って、天皇陛下に逆き奉り逆賊としての汚名を永久に受けるようなことがあってはならない。今からでも決して遅くはないから、ただちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰するようにせよ。そうしたなら今までの罪も赦されるのである。お前たちの父兄はもちろんのこと、国民全体もこれを心から祈っているのである。すみやかに現在の位置を棄てて帰って来い。
戒厳司令官 香椎浩平」
344 「朴訥な口調に慈父の愛情を籠めたこの名文は、若い兵士の肺腑をつき彼らの胸を打ったはずだ。」兵の父兄はこの恩情ある処置にいかに感激したことか、その効あって午前10時頃から続々と帰順者を出すに到った。(何でも天皇の権威を持ち出す。)
戒厳司令部発表
一、午前十時前、参謀本部付近で機関銃を有する下士官およそ30名が帰順した。さらに各方面で帰順の兆候がある。
二、幸い、今まで兵火を交えない。
戒厳司令部発表
午前11時50分、首相官邸や山王ホテルに在るごく小部隊を除き、叛乱部隊の下士官兵のほとんど全部が大きな抵抗もなく帰順した。間もなく叛乱の鎮静を見るだろう。
市民の顔から憂愁が去り、お互いにああよかった、よかったと吾がことのように歓喜した。偶然か四日間の暗天も、この快報を聞く頃から晴れ始めて、春の陽が帝都に微笑みかけた。
戒厳司令部発表
叛乱軍は午後2時頃その全部の帰順を終わり、兵火を交えることなく鎮定をみた。
司令部もよくやってくれた。一方、叛軍とはいえ、その整然たる規律に最大限の賞賛をおしまなかった。
戒厳司令部29日午後3時20分発表
一、避難された方々はただ今より憲兵、警察官の指示を受け、自宅にお帰りください。
二、環状線の交通制限は、午後4時10分以後解除します。
交通が再開し、街の灯やネオンが明るく輝いている。
345 29日、26日に射殺されたと信じられていた岡田首相が生命に別状なく、実は首相秘書義弟松尾大佐が、容貌の似ていることから身代わりに射殺されたことが判明し、また不明が伝えられていた牧野伯は無事で、鈴木侍従長も輸血によって一命をとりとめたことが発表された。
政界は根底から揺り動かされた。叛乱軍に対する処罪、後継内閣問題、軍部内部の統制問題、西園寺公の上京など、政治的非常時風景が以後数日続くが、ここではそれには触れず、以下、戒厳司令部発表の事件の全貌を記し、事件の首謀者、殉職者、事件による文武重職の更迭を記録する。
3月4日午後1時30分、戒厳司令部当局談
「2月26日早朝、近衛歩兵第三聯隊、歩兵第一聯隊、歩兵第三聯隊、野戦重砲兵第七聯隊に属した将兵約1400数十名は、軍秩を紊り、不法出動を敢えてして叛乱を起こし、まず、首相官邸、斎藤内大臣私邸、渡辺教育総監私邸、牧野前内大臣宿舎(湯河原伊東屋旅館)、鈴木侍従官邸、高橋大蔵大臣私邸を襲撃し、斎藤内大臣、渡辺教育総監を殺害し、鈴木侍従長、高橋大蔵大臣に重傷を負わせ(高橋大蔵大臣は同日薨去)、次いで、これら叛乱軍は、麹町区永田町附近に位置し、その内外の交通を遮断した。その目的とするところは、趣意書によれば、内外の重大危機の際、元老、重臣、財閥、軍閥、官僚、政党等の団体破壊の元凶を芟(さん)除し、大義を正し、国体を擁護開顕しようとすることであった。
事件直後、警備司令官は在京部隊を指揮し、治安の維持に任じ、同日26日午後3時、第一師管(は)戦時警備を下命された。この間、甲府、佐倉、水戸、高崎、宇都宮から一部の部隊が上京を命ぜられ、これら部隊は同日着京し、警備司令官の指揮下に入った。
翌27日、東京市に、戒厳令中の一部の施行が命ぜられ、東京警備司令官香椎中将が、戒厳司令官に補せられ、前記の諸部隊を指揮した。
叛乱軍のいる地域内に宮城、皇王族や官庁や外国公館のほか、多数の住民の居宅があり、人心に与える影響が懸念されたので、直ちに鎮圧のための強硬手段を執るのではなく、まず厳重に包囲監視し、3日間、各上官、同僚らにより、叛乱軍幹部に対し、原所属隊に復帰するように説得したが、彼らは聞き入れず、28日、奉勅命令にも服従しなかったので、強行解決を決意した。28日夜、宇都宮、松本、水戸、若松等から、一部の部隊の上京が命ぜられ、それぞれ戒厳司令官の指揮下に入った。
346 29日朝、永田町附近の住民に非難を命じ、市内の交通を停止し、同時に下士官、兵に帰順の余地を与え、飛行機、戦車等により帰順説得のビラを撒布し、反省を求めた。すると下士官兵は漸次帰順し、同日午後ほとんど全員が帰順した。彼らの武装を解除し、兵営に隔離収容した。叛乱軍の幹部野中四郎は自決し、その他の大部分は衛戍刑務所に収容され、兵火を交えず、叛乱軍を鎮定できた。」
「叛乱軍参加の下士兵の総数は、1400数十名で、その所属は、近衛歩兵第三聯隊50数名、歩兵第一聯隊400数十名、歩兵第三聯隊900数十名、野戦重砲兵第七聯隊10数名だった。」(戒厳司令部3月6日午後7時発表)
叛徒に対して、3月4日、勅令に基づき、東京に陸軍軍法会議を開くことになった。
勅令
朕茲に緊急の必要ありと認め、枢密顧問の諮詢を経て、帝国憲法第8条第1項に依り、東京陸軍軍法会議に関する件を裁可し、これを公布せしむ。
勅令第21号
第一条 東京に東京陸軍軍法会議を設く。
第二条 東京陸軍軍法会議は、陸軍大臣を以て長官とす。
第三条 東京陸軍軍法会議は、陸軍軍法会議法第一条ないし第三条に記載する者の犯したる、昭和11年2月26日事件に関する被告事件に就き管轄権を有す。
第四条 師団軍法会議の長官は、捜査の報告を受けたる前条の被告事件を、東京陸軍軍法会議の長官に移送すべし。前項の規定により、東京陸軍軍法会議の長官は、事件の移送を受けたるときは、捜査の報告ありたるものと看做し、処分すべし。(意味不明)
第五条 東京陸軍軍法会議は、陸軍軍法会議法第一条ないし第三条に記載する者以外の者が、同法第一条ないし第三条に記載する者と共に、昭和11年2月26日事件に於いて犯したる罪につき、裁判権を行うことを得。
第六条 東京陸軍軍法会議は、陸軍軍法会議法の適用に就いては、之を特設軍法会議と看做す。(意味不明)
347 付則
本令は公布の日より之を施行す。
因みに陸軍軍法会議法第一条ないし第三条は次の通りである。
第一条 軍法会議は左に記載したる者に対し、その犯罪につき裁判権を有す。
一、陸軍刑法第八条第一号ないし第三号、第四号後段、第五号、及び第九条に記載したる者。
二、陸軍用船の船員
三、前二号に記載したる者を除くの外、陸軍の部隊に属し又は従う者
四、俘虜
前項第二号及び第三号に記載したる者の中、特に除外すべき者(が)あるときは、命令を以て之を定む。
第二条 軍法会議は前条に記載したる者に対し、その身分発生前の犯罪に付(いても)、また裁判権を有す。
軍法会議は、前条に記載したる者(が)その身分を喪失したる時と雖も、身分継続中(の)捜査の報告(が)あり、または、逮捕、拘留せられたるときは、その者に対し、また、裁判権を有す。
第三条 軍法会議は、陸軍刑法第八条第四号前段に記載したる者に対し、その犯したる陸軍刑法の罪につき、裁判権を有す。
前条第二項の規定は、前項に規定する犯罪につき、之を準用す。
陸軍刑法
第八条 陸軍軍人と称するは、左に記載したる者をいう。
一、陸軍の現役にある者。但し、未だ入営せざる者及び帰休兵を除く。
二、召集中の在郷軍人
三、召集に依らず、部隊にありて、陸軍軍人の勤務に服する在郷軍人
四、前二号に記載したる者の外、陸軍の制服(を)着用中、又は現に服役上の義務(を)履行中の在郷軍人
五、志願により国民軍隊に編入せられ、服務中の者
第九条 左に記載したる者は、陸軍軍人に準ず。
一、陸軍所属の学生、生徒
二、陸軍軍属
三、陸軍の勤務に服する海軍軍人
前項第一号に記載したる者の中(で)、特に除外すべき者あるときは、命令を以て之を定む。
事件関係者として左記将校に対し、(2月)28日付けで、次のような免本官の辞令が内閣から発表された。
歩兵大尉香田清貞(東京)、同安藤輝三(岐阜)、同野中四郎(岡山)、歩兵中尉中橋基明(佐賀)、同栗原康秀(東京)、同丹生誠忠(鹿児島)、同坂井直(三重)、砲兵中尉田中勝(山口)、歩兵少尉林八郎(東京)、同池田敏彦(鹿児島)、同高橋太郎(埼玉)、同麦屋清済(埼玉)、同常盤稔(大分)、同清原康平(熊本)、同鈴木金次郎(茨城)
免本官(各通)
348 さらに(2月)29日、内閣より次の発令がなされた。
陸軍航空兵大尉河野寿(熊本)、歩兵中尉対馬勝雄(青森)、同竹島継夫(滋賀)、砲兵少尉安田優(熊本)、工兵少尉中島完爾(佐賀)
免本官(各通)
以上のように(2月)29日、これら叛乱軍の20人の将校は、位を返上し、勲等功級記章を褫奪(ちだつ、剥奪)された。20人中の野中四郎と河野寿は自決死亡し、東京陸軍軍法会議に回される者は、この2人を除いた18人と、この事件に参加した、元歩兵大尉村中孝次(北海道)、元一等主計磯部浅一(山口)、士官学校中途退学渋川善助(福島)、元歩兵少尉山本又(静岡)らを合わせた22人である。
(3月)1日午後1時半警視庁発表 今回の事件で、首相官邸などで警備していた警官で殉職した者が5名、負傷者は1名であった。
首相官邸配置巡査部長村上左衛門、首相官邸配置警衛課勤務巡査小館喜代松、同土井清松、牧野礼遇随衛巡査皆川義孝、杉並署兼麹町署勤務巡査清水与四郎、鳥居坂署兼表町署勤務蔵相私邸配置巡査玉置英男
これら殉職警官と遺族に対する義捐金が10数万円に達した。
歩兵第三聯隊付天野武輔少佐は、29日未明、心痛のあまり同聯隊内で拳銃自殺を遂げた。また、陸軍省軍務局課員片倉衷少佐は、26日午前9時頃、警戒線を突破して単独登庁し、さらに陸相官邸に赴こうとしていた時、叛乱軍に射撃され重傷を負った。
遭難者に26日付で叙勲と位階の昇進が行われた。
叙勲対象者 高橋是清、斎藤実、渡辺錠太郎
位階昇進者 高橋是清、斎藤実、渡辺錠太郎、松尾伝蔵
教育総監の後任は、軍事参議官陸軍大将西義一となった。*
*この次に「教育総監本部長・教育総監代理・中村孝太郎」とあるが、ウイキペディアによれば、中村孝太郎は、1935年12月、教育総監部本部長となったとあり、本文28日の項に、教育総監代理として、中村孝太郎教育総監本部長をあてたとある。中村は一時的に代理を務めていたのだろう。ウイキペディアにも西が教育総監に就任したとある。
3月6日、天皇により、内大臣(一木喜徳郎*、湯浅倉平)と宮内大臣(松平恒雄)の親任式が行われた。*
*一木は内大臣に任官後直ちに免官となり、湯浅は宮内大臣を免本官となり、その後内大臣になったらしい。
ウイキペディアによれば、一木は、二・二六事件で内大臣斎藤実が殺害されると、後任が決定するまでの1日間だけ内大臣臨時代理を務め、また、湯浅倉平は、3月6日、殺害された斎藤の後任として内大臣に就任したとある。
3月6日、林銑十郎、真崎甚三郎、阿部信行、荒木貞夫ら4人の軍事参議官兼陸軍大将が予備役に編入された。川島陸相も、一旦軍事参議官に補せられるが、後継内閣成立時には、予備役に編入されることになっている。これは事件の責任を取ったものである。
二・二六事件の余波は、広田新内閣組閣での紆余曲折となって現れた。今後、財政政策や対外政策で変化があるだろう。また、政党政治にも影響するだろうし、軍にも反省点がある。
350 しかし、憂慮されていた財界の動揺は、微弱で済み、市民は冷静だった。一外人は、日本人の沈着を理解できないと言った。
まだ帝都は戒厳令下にある。何で警戒しているのか、知る由もない。早く明朗な帝都に戻ってもらいたいものだ。
昭和11年4月号
以上 2020年9月26日(土)