2020年11月30日月曜日

汪精衛(兆銘)清談録 1943年1月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 メモ

汪精衛(兆銘)清談録 1943年1月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

メモ

 

汪精衛 1883.5.4—1944.11.10 精衛は号。本名は兆銘。(新)国民政府主席。

太田宇之助 1891—1986 朝日新聞記者。南京政府経済顧問。本文の質問者。

石川信雄 支那派遣軍報道部 本文の記録係。

 

本文は文藝春秋が企画した汪兆銘へのインタビューである。政治に関する話題はほとんどなく、個人的な話ばかりである。汪兆銘は主席という多忙な生活の中でも読書の時間を見つけようとしていた。

日本国民に汪兆銘に親しみを持たせるための企画なのだろう。満州国の溥儀へのインタビューと同様だ。

 

編集部注によれば、

1940年3月、日本は汪兆銘を主席とする傀儡政府(新国民政府)を中国につくらせた。

1943年1月、戦争完遂についての日華共同宣言を発表し、運命を共にすることまで(新国民政府に)誓わせた。本文はその直前のインタビューである。

 

以上 20201130()

 

北満の十二月八日 宮田重雄 1942年12月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 要旨・感想

北満の十二月八日 宮田重雄 1942年12月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

感想 

 

筆者は非常に情緒的だ。

一億狂気の集団ヒステリー。なぜなのか。異論を封殺してきた結果か。一旦対米戦争に突入すると後戻りできずそれに突き進むという心理もあるかも。恐ろしい。

 

 

要旨

 

編集部注

 

1942年1月、東条内閣は内閣告諭を発し、毎月8日を大詔奉戴日として、戦争完遂のために国民の総意を高めようとした。これは対米英開戦の12月8日を記念したもので、この日学校では宣戦の大詔奉読、必勝祈願が、そして各家では国旗掲揚が義務づけられた。筆者は医学博士で画家。

 

本文

 

533 「今日は第11回目の大詔奉戴日である。(1942年12月8日か)感激のあの日(1941年12月8日)からもう1ヵ年の歳月が流れた。一億国民の去年の今頃の暗澹たる気持ちと、快然たる今日とに思いを致すとき、皇恩のありがたさと、英霊や前線の将兵・戦友への感謝の祈りは深いのである。」

 私は北方の護りについていて、あの日(1941年12月8日)を迎えた。

 昨年(1941年)の夏、私は再度の御召に応じて入隊した。南か北かが将兵の関心事だった。1941年6月22日の独ソ戦開始に続いての招集であり、防諜のために、目立たぬよう、見送りなどなく、軍服も着用しないで入隊せよという。

 (南部)仏印進駐1941の後であったから、(北部仏印進駐は1940)すでにABCD包囲網でわが国を締め付けているときだった。

 

 同じ兵営に入隊したいくつかの隊が、胸に赤、白、黄、青などの色布で赤組、白組などと呼ばれた。

 赤組その他の組は北満方面らしかったが、私たちの白組だけは行き先が不明だった。

534 ○○港を出帆して、開いてみた命令には行き先として「大連」と書いてあった。大連入港前日、船のラジオが仏印サイゴンに皇軍が平和進駐したことを告げ、その華々しい状況を報じた。

 

 私たちは汽車で3日3晩、北満の果てに近い高原の小駅に着いた。

 生活は平静で拍子抜けした。8月末、そこからさらに国境に近い丘の上の兵舎に自動車で移駐した。

 新しい兵舎でも平静で、鉄道線路敷設の応援や演習などで日が暮れた。

 兵舎や病院だけで、遊びに行くところはなかった。時々慰問映画か、黒河の芸妓たちが祝祭日に来て踊りを見せてくれた。

 幸いわが隊は、酒保(兵営内や軍艦内で日用品・飲食物などを扱う売店)用品として、内地を出るとき六球スーパーのラジオを数台買ってきていたので、それを本部、酒保、各中隊に配った。夜の演芸放送の後、ロシア語や支那語の音楽などが遅くまで入ってきた。

 内地からの手紙や新聞が一週間以上、一番早く手に入る満洲の新聞が5日もかかっていたので、ラジオのニュースを何よりも先に聞くようになった。

 

 国内の情勢は日に日に逼迫していった。(ルーズベルト大統領あての)近衛メッセージの回答はなかなか来なかった。(実は右翼による近衛の暗殺計画9/18が、在京米大使館員襲撃計画10/2が発覚し、不穏になり、首脳会談ができなくなった。加藤陽子『戦争まで』400ABCD包囲網の横暴は、我々を苛立たせた。独ソ戦の戦況もはかばかしくなく、陥ちると思ったモスクワも容易に陥落しなかった。

 夜の話題は部隊長も交えて対米英の問題が多くなった。帰還のデマもあった。帰還のデマは出征につきものの兵隊の遊びだ。事実ポツリポツリと部隊がいなくなった。移動命令が来たが、同じ土地の東方の兵舎に移転するだけだった。

 

535 すぐ雪が降ってきて、ペチカの火を絶やすことができなくなった。孫呉熱という出血性紫斑病に似た疾病が流行し、死者も出た。

 会計検査があり、酒保が数台もラジオを持つことはできないことになり、部隊長以下希望者に原価で分けられた。私も中隊長と共同で買った。

 

 日米会談を応援するために来栖(三郎)大使が飛行機で渡米した。(1941年11月27日、来栖大使は野村大使とともにルーズベルト大統領と会談した。)われわれは心の一方では平和的解決を望みながら、他方では到底解決しそうもないのにこんなにまでしなければならぬのかと、不甲斐ない感じがして、わが国は米英を相手にする実力がないのであろうかと気持ちが沈みこむのであった。夜は対米英の作戦を語って気焔を上げた。香港、マレー、シンガポール、ジャワ、フィリピン等は簡単に打ち負かすことができるという結論にたどり着くのであった。内地の友人の手紙も日米会談のことが多く、悲憤の思いがこもっていた。

 

 ラジオが近衛内閣の瓦解と、東条内閣1941.10.18—1944.7.22の成立を告げた。われわれも何かと色めき立ち東条首相こそこの局面を何とか打開してくれるであろうと話し合った。

 

 丘を下りて(鉄道)沿線の元○○隊がいた兵舎への移動命令が来た。その部隊はどこかへ移駐したとのことだ。11月30日、零下30度、吹雪の中を移駐した。そこは低い丘陵地帯でやはり軍関係以外の建物はなかった。

 そこでは将校たちは一般の兵隊の兵営の下の官舎に住むことになり、私は中隊長と一緒に一つの官舎に起居することになった。毎朝隊から貨物車が一台我々を迎えに来た。

 ラジオは毎晩日米会談の模様を伝えた。野村・来栖両大使は辛抱強く米国の回答を待っているように思われた。

536 兵隊たちはスキーやスケートで体力を練っていた。

 

 12月8日朝、食卓についてラジオを聞くと、「帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋における米英軍と戦闘状態に入れり」というアナウンサーの声が入った。当番兵は「いよいよはじめたか」と言った。

 私は中隊長を呼んだ。遂に来るものが来たという思いと、胸中のモヤモヤが一度に吹き晴れて行く清々しい感じであった。

 将校たちに話すと、驚くと共にそうあるべきだと話し合った。(本心か)部隊長は兵を集合させた。兵隊も皆亢奮していた。

 部隊長の訓示「本日暴戻なる米英に対して宣戦の詔勅が降った。隠忍自重堪えがたきを堪えあくまで平和的解決を望んだわが国の意志を、実力の過小と評価した彼らに対する神罰が降ったのである。真に肇国以来の大戦であり、亜細亜における英米勢力を一掃する聖戦である。無敵皇軍の征くところ必勝は期して待つべきであるが、我々もまた北辺警備の任にあって、この日を迎えた光栄を感銘し、われらが北辺を守るゆえに、南方の戦友たちは、存分に働けるのであるという誇りを持って、各自一層任務に精励せよ」という意味の訓示であった。

 部隊長の声も亢奮に高く、それを聞く兵の顔にも逞しい緊張があった。終わって東方を拝し、祖国に、南方戦線に、響けよとばかり、聖寿万歳を三唱した

 既に英艦の撃沈と、米艦の拿捕が報ぜられた。部隊長は隊のラジオが部隊長室と酒保にしかないから、次々に報道される戦果を兵全体に知らせる方法をとるように私に命じた。私は酒保に行き、T軍曹と相談して各中隊から速記の兵を出させ、ニュースの時間ごとに酒保に集合し、速記した記事を各中隊の適当な場所に張り出させることにした。

 

 11時、大詔の奉読があった。酒保に来会したI主計中尉とT軍曹と私と、防寒外套を脱ぎ、不動の姿勢をとって拝聴した。

537 畏れ多いきわみながら「豈朕が志ならんや」と語らせ給う大御心に、止めどない泪が頬を流れ落ちた

 

 やがてハワイ真珠湾攻撃の大ニュースが入ってきた。兵隊はワアッとばかりに歓声を上げて酒保に殺到した。私たちは真珠湾の大略の地図を描いて張り出した。

 一挙真珠湾を空襲しようなどとは、われわれの夢だに想像しなかったことであり、その輝かしい戦果に雀躍を禁じえないのである。

 兵隊たちは理性において先刻部隊長の訓示にあった、北方を護ることの意義を識っていても、感情においては南方の戦友たちに羨望を感じているようであった。(これ本心なのだろうか。熱病に冒されているのではないか。)

日米が戦えばソ連はどういう態度に出るか、たびたび我々の座談に上ったが、予想通り極めて冷静であった。(2年前の1939年5月から9月にかけてノモハン事件が起きているのに。)

 

 ラジオから連続して流される軍艦行進曲も古い軍歌も、不思議に我々の心に乗って、何か凛々たるものが体に溢れるようであった。夕食後は将校たちとニュースを聞きながら万歳を唱えた。この生涯の記念すべき日にわれわれ草莽の覚悟を手紙に書いて妻や子供や友人に送った。書きながら今日ほど一億の心が一つの焦点にピタリと合った日はないと思い、涙を落とした。(非常に情緒的)

 友人たちと手を取り肩をたたいて、きょうの感激を語りたい思いに堪えかねた。

 

以上 20201129()

 

2020年11月29日日曜日

愛国百人一首 下村海南 1943年1月号  「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 メモ・感想

愛国百人一首 下村海南 1943年1月号  「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

メモ

 

ウイキペディアによれば、

下村宏(海南)1875.5.11—1957.12.9

 

海南は号で本名は宏。官僚、新聞経営者、政治家、歌人。東大卒。拓殖大学第6代学長、内閣情報局総裁。

 

東大卒業後、逓信省入省。台湾総督府民政長官1915、同総務長官朝日新聞社入社1921、貴族院議員1937、日本文学報国会理事1942、日本放送協会会長1943、国務大臣(内閣情報局総裁)1945.4.7

戦後、戦犯で一時拘留。公職追放。東京商業学校(一橋大学)の運営に関わりながら、1953年参院選に出馬・落選。

 

 

感想

 

退屈、つまらないの一語。

 

「一億一心大東亜戦を完遂し…」「大東亜新秩序の建設に邁進しつつある今日…」「大東亜の指導民族としての時代…」「革新の気」「国体の明徴」等々。表現はもったいぶっているが、内実は全くない。

 

1941年の日米交渉の葛藤を経て同年12月の対米戦争開始を境として、日本人は一億総狂気の時代に突入したようだ。この一文には、忠君愛国精神溢れる、幕末以前に亡くなった人の歌を集めて忠君愛国精神を助長するカルタ(百人一首)を新たにつくり、国民の全体主義化を進めていく様子が書かれている。また次の一文では、1942年1月、東条英機内閣が大詔奉戴日を毎月8日に設定して、各家庭での国旗掲揚を義務化し、学校では大詔奉読・必勝祈願の記念行事を行わせるようになる1年前の出来事を振り返りながら、1941年12月8日の対米開戦・ハワイでの戦勝の様子を満洲でラジオを通して聞き、その時の感激を語る。恐ろしいことだ。国民は率先して忠君愛国に突き進んでいったようなのだ。

 

キーワードは国体明徴。国体明徴とは天皇に忠誠を尽くすことを義務化することだ。

 

この一文も、天皇への忠誠が話題の中心で、明治以降の死者を選考から外したが、吉村虎太郎の母親が明治以降死んだため、天皇に対する忠心を歌った彼女の歌が選から洩れたことは惜しいとか、実朝が天皇への忠誠をテーマに歌い、それは今のような国体が明徴されている時代では月並みだが、当時の幕府跋扈の時代では稀有なことだとして、批判もあったが入選にしたなど、全て天皇に対する忠誠が話題の中心となっている。以下、それぞれどんな歌か一首ずつ上げる。

 

吉村虎太郎の母の歌

 

四方に名をあげつつかへれかへらずは

おくれざりきと母にしらせよ

 

 吉村虎太郎は幕末の勤王の志士だったらしい。*「前の侍従中山忠光を擁して義旗を南和(大和国)に挙げ(天誅組)、文久3年、1863年、9月26日、大和鷲家口で屠腹して果てた*」とある。歌の意味は、「虎太郎よ、あちこちで戦い、名を挙げて帰って来い。もし戦死して帰って来れないならば、他人に遅れることはなかったと私に知らせておくれ」という意味なのだろう。

 

*吉村虎太郎 1837.5.22—1863.9.27  土佐藩の志士。

*八月十八日の政変 西暦では1963年9月30日に当たる。孝明天皇・中川宮朝彦親王・会津藩・薩摩藩など幕府への攘夷委任(通商条約の破棄、再交渉)を支持する勢力が、攘夷親政(攘夷戦争)を企てる三条実美ら尊攘派公家と背後の長州藩を朝廷から排除したカウンタークーデター。堺町御門の変、文久の政変ともいう。

 

 実朝の歌

 

山はさけ海はあせなむ世なりとも

君にふた心われあらめやも

 

意味は「山が割け、海が褪せるような今の世の中でも、私は天皇に対して忠誠を誓わないような心は抱きたくない」という意味か。

 

「鎌倉時代は武家が跋扈する時代で、上も下も皆口をつぐんで尊皇愛国の歌など口にできない時代だった。北条一族が包囲する中を、実朝は敢然と詠んだ」とある。

 

 

このような状況はどんな精神構造をもたらすか。そこからは個人の尊厳や主体性や責任は生まれない。一個人は一人の愚かな使われる者に過ぎず、全ての責任は天皇にあり、全て人任せという発想が生まれる。自らが責任を持って時代を切り開いていくという精神に欠ける。20201128()

 

 

編集部注

 

日本文学報国会なるものが1942年2月につくられ、1942年11月、内閣情報局の後援で、戦中の愛国精神を高揚するために、新たな百人一首をつくった。選者は、筆者を含めて佐々木信綱、斎藤茂吉、折口信夫、北原白秋ら12人。「祖先の情熱に接し、愛国精神を高揚」するため、万葉歌人から幕末の志士までの歌を選んだ。

 

以上 20201127()

 

2020年11月27日金曜日

運命の海戦 草鹿龍之介 1949年10月号  「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 要旨・感想

運命の海戦 草鹿龍之介 1949年10月号  「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

メモ

 

ウイキペディアによれば、

草鹿龍之介1892.9.25—1971.11.23  住友本社理事の長男。一高に合格したが、兵学校に進んだ。

 

1945年8月25日から総理大臣・東久邇宮稔彦王の命で鹿屋連絡委員長*になり、米進駐軍との交渉に当たり、1ヵ月後に任を終えた。10月15日、予備役に編入。

戦後は公職追放を経て、化学肥料会社の顧問を務めた。

 

*占領軍受け入れを担当する連絡委員会が厚木、横須賀、鹿屋の三ヶ所に設置された。武装の撤去、危険物の除去、進駐軍の受け入れ準備を促進した。

 

1942年5月27日~6月14日 ミッドウエー海戦に機動部隊の参謀長として参加。海軍中将。

編集部注の「運命の5分間」とは、ミッドウエー島攻撃のための地上爆撃用爆弾を空母攻撃用の魚雷爆弾に装着し直すのに時間がなく、その間に敵の攻撃を受け、爆弾を積んだ(赤城)艦上の飛行機54機が爆発して、54倍の威力となって船をやられてしまった。(この遠因は、情報収集能力不足)しかし、敗因として筆者は、空母にレーダーがなかったこと、ミッドウエー島奪取(奪還ではなく奪取。それまで日本が領有したことはなく、アメリカが領有していた。)を狙ったことで自身の位置が米側にばれたこと、偵察用の飛行機が不足していたことなども敗因として挙げている。

当時日本海軍では伊勢と日向の二艦だけに電波探知機(レーダー)が取り付けられたばかりだった。一方、アメリカでは航空母艦にもレーダーが全部ついていたそうだ。523

偵察機にもレーダーがない。519黎明二段索敵をやらなかった。519敵の航空母艦三隻を見逃した。

基地もなく、潜水艦もなかった。520

 

最初の段階で、天候が悪く、濃霧で、補給部隊が発見できず、補給部隊が無線を発信して敵艦に自らの位置を教えてしまった。変針の連絡でも無線を使った。「無線封止」の原則を破った。515, 516

「見つかったっていい、力押しだ、腕は強いのだから構わない」517という慢心があった。

ミッドウエー島を地上から攻略する部隊(陸海軍部隊で編成された上陸参戦部隊)は5月24日にサイパンから出航したが、早く着きすぎて敵に発見されてしまった。

 

 山本五十六連合艦隊司令長官*が5月29日に出航した。

 

*山本はこの作戦に直接加わることはなく、別行動で遠くから監督していたようだ。

 

 キスカとアッツを取ろうと見せかけて、アリューシャン方面の陽動作戦を実施した。

 

敵機動部隊はいないと決定され、雷撃機の魚雷を陸用爆弾に装備換えし、第二次ミッドウエー攻撃に転用した。521

そこへ、4時頃から6時半まで、敵機が来襲した。ミッドウエー島からのものだった。この時は事なく切り抜けた。

魚雷を下し陸用爆弾に替えている最中に、5時頃、敵艦(空母)がいるという情報が入った522

逆の装備替えはあと5分あれば完了でき、飛行機が発進できたのに。第一機の発進は7時24分だった。

 

悪天候で敵機を発見できず、急降下爆撃を受けた。日本にはレーダーがなかった。523

加賀が4弾やられた。523艦橋に一撃を受け、艦長以下首脳部が即死した。524

蒼竜が4弾、赤城が3弾やられた。523

赤城から将旗を外して駆逐艦の内火艇に移った。525

飛竜が最後の攻撃に出かけたが戻ってきた者は少なかった。526

ヨークタウンを攻撃できただけだった、残る2隻(エンタープライズ、ホーネット527)は無傷だった。3艦分の航空兵力を保持している。ヨークタウンはその前に攻撃を受けていたから無意味だった。

空母飛竜は4発の直撃弾を受けて失った。第三次攻撃を中止して帰還した。

米側にはレーダーがある。こちらが追いかけると引いていく。

作戦が中止された。第七戦隊の三隅、最上が逃げ遅れた。

 

大本営は鳴り物入りで戦捷を報じた。海上において悪戦苦闘する者の身になれば、国民が真実も知らずに、有頂天になっているのを見ると何とも情けない。東条首相が東亜共栄圏を飛びまわり、これらの人々のを呼び集めてヒトラー張りの演説等を行うのを見て嫌気が差した。

529 ミッドウエー作戦には無理があった。だいたい戦争自体に無理があった。人も艦も疲れていた。自分の心に驕りがあったと反省する。

 ミッドウエーは不沈空母である。不沈空母に食らい付いて自らの所在を示さざるを得なかった。この作戦計画に第一の失敗原因がある。

 

私は今微生物肥料の研究に没頭をしている。人に書けと言われたからこの一文を書いた。

 

要旨

 

編集部注

 

1942年6月のミッドウエー海戦での大敗で一挙に逆転した。筆者は元海軍中将。ミッドウエー海戦では機動部隊の参謀長。いわゆる爆装転換による「運命の5分間」を一番早く世に示した。(私は「運命の5分間」という時間的口実を信じない。装備の優劣が勝敗を決定した。レーダーを持っている米軍は雲間を利用して、急降下爆撃で日本側が気づかないうちに爆弾を多数命中させた。523

 

本文

 

514 南雲忠一海軍中将が機動部隊を指揮し、5月27日、広島湾を出航した。その編成は、南雲長官が直接指揮する第一航空戦隊赤城、加賀)、山口多聞少将が指揮する第二戦隊飛竜、蒼竜)、航空母艦が4隻。それを掩護する戦艦榛名、霧島)、巡洋艦(利根、筑摩)、軽巡洋艦長良を旗艦とする第十戦隊の10隻の駆逐艦であった。

 5月29日、連合艦隊司令長官山本五十六大将が、戦艦大和、伊勢、日向、山城、長門)、10隻の駆逐艦航空母艦鳳翔、旧式、上空直衛・対潜警戒)を伴って出航した。同時に攻略部隊指揮官近藤信竹中将が第二艦隊の巡洋艦(鳥海、摩耶、妙高)を指揮して出航した。

 

 ミッドウエー上陸作戦部隊は5月24日、サイパンから出航した。これは陸海軍部隊で編成された。一個師団程度の兵力で、輸送船16隻である。これを第二水雷戦隊(旗艦神通以下7隻の駆逐艦)が護衛した。またグアムから出航した第七戦隊の巡洋艦(熊野、三隅、最上)がこれを掩護した。

 

 6月4日、アリューシャンのキスカとアッツを奪取すると見せかけるため、ダッチハーバー*を空襲した。一方6月5日ミッドウエー攻撃を予定していた。アリューシャンは牽制作戦である。5月27日角田覚治中将*が指揮官となり、航空母艦(神鷹、竜驤)と若干の駆逐艦を従えて、大湊の要港から出航した。

 

*アラスカ州ウナラスカのアマクナック島の港湾都市。

 

515 6月1日、天気が悪くなった。霧が深くかかり、山本主力部隊、南雲部隊は補給を必要としていたが、補給部隊を発見できなかった。霧のわずかな晴れ間を見て、鳳翔(山本部隊)から飛行機を飛ばしたが発見できなかった。

 

 補給部隊のタンカー鳴戸が「位置知らせ。われの位置ここ」と無電を打った。これは敵に呼びかけたことになる。

 

 6月1日から4日まで悪天候だった。6月3日が一番ひどく、濃霧だった。探照燈が役に立たない。探照燈が朧月のように見える。

 

 ミッドウエーの北西600マイルの地点に到着し、ここから6月3日の午前10時に方向転換し、ミッドウエーに向けて転針することになっていた。

 

 南雲部隊は6月5日にミッドウエーを空襲し、6月7日の上陸作戦に協力する予定になっていたが、また南雲部隊は、米航空母艦4隻を発見して叩く予定にもなっていた。そのためには場所や時間の制限がないはずだが、またミッドウエーも叩くことになっていたので、時間と場所の制約を受けるという矛盾があった。(二兎を追う)

 

 作戦には隠密が第一だ。それを「無線封止」という。

 

 南雲は考えた。「偵察していないので敵の機動部隊を叩くことができない。敵は真珠湾にいるかもしれない。真珠湾からミッドウエーまで1000マイルあるから、時間的に余裕がある。ミッドウエー攻撃を優先しよう。」

そして、今変針点に来ているからとして、無線を発して各艦に命令した。天候が悪かったので手旗が機能しなかった。旗旒(りゅう)信号という。夜なら探照燈だ。無線も微勢力電波のつもりだったが、500マイル離れた大和まで通じてしまった。当時、2、300マイル離れたところにいた米機動部隊に傍受された。速力も分かる。

 

 サイパンを出航した輸送船団は劣速なので、早めに出したが、早過ぎて、5月3日、ミッドウエーから700マイルの地点に来た。ミッドウエーの南西方向は天気が非常によく、米偵察機と日本の偵察機が遭遇した。米側は毎日策敵哨戒機を出している。

 6月1日、日本側が飛行艇を索敵に出した時に遭遇した。互いに1機ずつで空中戦闘をした後に分かれた。

 他の方面に出た哨戒機が、ミッドウエーから400マイルの地点で、米潜水艦2隻を発見した。10隻や20隻が散開線(散らばること)を張って哨戒しているようだ。

 

517 「見つかってもいい、力押しだ。腕は強いのだ。構わない。敵空母を誘い出すのだ。ミッドウエーを叩き終わった時、米側の空母がハワイからミッドウエーに到着するだろう。」という判断だった。

 

 6月3日、南雲司令長官は無線で機動部隊に変針を命じ、5日早朝を期してミッドウエーに向った。

 水中聴音は敵潜水艦のスクリュー音を報告し、上空見張りは6月4日夕方、西方に10機の敵機を発見し、戦闘機を発進したが、何もなく帰還した。戦機を掴むことは偵察から得られる。従来の砲戦魚雷戦はのんびりしていたが、今は違う。

 

 6月4日の日没後、輸送船団が敵に発見され、1時間、敵の飛行機1機が執拗に輸送船団に付きまとい、また(米)陸軍の爆撃機B17が10機来たが、被害はなかった。夜半、陸上の大型機1機が魚雷を輸送船団の補給船1隻に命中させたが、「擦り傷程度」で落伍することはなかった。

 

 6月5日の夜明け、米飛行艇が日本の機動部隊の上空に現れた。この日はミッドウエー攻略予定日だ。日の出前の30分、東京時間で午前1時半*、ミッドウエー空襲隊は発進した。

*現地時間で午前4時半くらいか。ミッドウエーは西経177度。東経135度との差は、45度+3度=48度。 時差は48÷15=3.2時間。

518 空襲隊の編成は、総指揮官が飛竜(南雲忠一下の山口多聞隊)の飛行隊長友永大尉。制空を担当する戦闘機36機を(友永が)直率し、急降下爆撃隊が36機、大きな爆弾を持った水平爆撃隊が36機、計108機が出発した。

 

 日本艦隊はその後米機に発見され、米飛行艇が触接を始めた。日本の戦闘機が追いかけると雲間に隠れる。それを何度か繰り返し、日本の様子を掴んで電信で送り始めた。この時、近所に米航空母艦がいるという懸念はないでもなかった

 

 飛び立った飛行隊は発艦後15分でミッドウエー上空に着いたが、地上に敵機がいない。友長は空振りで第二次攻撃が必要だと(午前4時(7時)に)連絡して、その後帰還した。

519 東京時間で午前1時半(現地時間で午前4時半)前に哨戒飛行をすべきだったが、やらなかった。飛行機が足りないことと地味なことを嫌がる傾向があった。

黎明二段階索敵をやらなかった。300マイルが最長距離である。レーダーはない。肉眼でやる。夜は見えないから、300マイル進み、そこで夜明けになる。出発は夜中になる。そうすると300マイル以内の敵を見逃すので、1時間遅れて第二段を発進させる。索敵線を扇形に何本も出せば敵を発見できる。しかし、ミッドウエー攻撃に多数の飛行機を使うことが優先された。

 

 6月5日、日の出前1時間に出すべき索敵機が少し遅れて攻撃隊の出発直前に発進した。赤城、加賀から一機ずつ、榛名から一機、その中央に位置する利根、筑摩から一機ずつ計5本の索敵機が300マイルまで出されることになっていた。

520 赤城、加賀からはすぐ発進できた。榛名もカタパルト(射出機)から発進させた。利根、筑摩からはカタパルトが故障したのか発進できず、30分遅れた。それは(扇形の)真ん中で、その中に敵機動部隊がいた。

 その中の1本の線上にいた敵を見逃した。天気も悪かった。別の索敵線の飛行機が300マイル行って帰るときにそれを見つけた。午前4時(7時)であり、予定なら1時間前に発見するはずだった。しかも南雲長官のもとに報告されたのが5時(8時)だった。(どうしてか。無線を使わなかったのか。)

 

制空戦闘機隊36機、降下爆撃隊36機、雷撃隊36機を艦上に用意していた。

日本には潜水艦がなかった。(この時用意しなかったということか)

 

 午前4時(7時)、友永から第二次攻撃が必要だと連絡があった。敵機動部隊はいないと(私は)判断した。それで艦上に待機させておいた攻撃隊をミッドウエーの第二次攻撃に用いることにして、魚雷を外して地上用の爆弾に入れ替えはじめたところを敵機が来襲した。4時(7時)ころから6時半(9時半)まで、すべてミッドウエーからの陸上機だった。

日本側も戦闘機を発進した。2、3時間。幸い切り抜けた。この間でも装備替えをしていた。

 

 5時(8時)ころ、「ミッドウエーから240マイル、針路150度、速力20ノットの敵らしきもの10隻身ゆ」という連絡が入った。偵察機が4時20分(7時20分)に打ったものだ。(悠長)南雲長官のもとに5時に届いた。「艦種を知らせろ」と(私は)言った。

522 「敵は巡洋艦5隻、駆逐艦5隻なり」

5時半(8時半)ころ、「敵はその後方に空母らしきものを伴う」と連絡が入った。その後、「敵はさらに巡洋艦2隻見ゆ」と連絡が入った。

 

今使えるのは急降下爆撃の36機だけだ。戦闘機に守られない爆撃機はもろい。戦闘機は今戦闘中で上空にいる。敵空母を攻撃するなら着艦して給油する必要がある。着艦させることにした。そこへミッドウエー空襲部隊が帰ってきて着艦を求めた。

 

 私は戦闘機なしでも出すべきだったと思う。陸用爆弾は十分でないが、800キロ爆弾が甲板に命中すれば滑走路用甲板は使えなくなる。しかし南雲長官は戦闘機なしでは出してはならぬとし、帰還部隊を収容することにした。

 飛行機を格納庫に入れ、ミッドウエーからの飛行機を収容した。この時敵機の来襲はなかった。

 

雷撃兵装に復帰することにした。陸用爆弾を魚雷に替える作業を始めた。その時敵航空母艦から艦載機がやって来た。最初の、戦闘機を伴わない雷撃機は打ち落とした。

 7時半(10時半)に準備完了予定とのこと。7時10分(10時10分)ころ、ミッドウエーからの敵機が艦載機に入れ替わった。7時10分、7時15分襲来の敵機は撃墜した。7時20分の「7時30分準備完了予定」との報告に、「準備次第発進せよ」と命令した。7時24分第一陣の一機が発進した。赤城ではあと3分で全機が発進完了できる。

赤城から第一機が発進した直後に、急降下爆撃があった。来るまで全く知らなかった。そのころ乱雲が増えて見張りがきかなかった。

 日本海軍は伊勢と日向にしか電波探知機を取り付けていなかった。航空母艦にもついていなかった。米航空母艦には全部ついているそうだ。加賀に4弾、蒼竜に4弾、赤城に3弾が命中した。

 甲板上にいる飛行機の燃料、爆弾等の相乗効果で、被害は敵機54機が体当たりしたのと同じ結果となった。

 加賀は艦橋に一弾を受け、艦長以下首脳部が即死し、総員が海に飛び込み、駆逐艦に救われた。

524 私は旗艦赤城の艦橋にいて南雲長官を補佐していた。機動部隊は緊縮隊形*で行動していたが、やがて支離滅裂となり、加賀や蒼竜は全艦が煙に包まれた。(私は)駆逐艦の数隻を割いて人員救助と防火に協力させた。

 

*緊縮隊形 連続急降下を受けた場合、各艦との距離が大きくなり陣容が崩れがちになる。母艦等を援護する場合は特に緊縮隊形の保持に留意すべきだ。ツイッター サムライ@戦史&九六式25mm機銃研究家@samurai_25mm

 

 この間飛竜は無疵だった。赤城では3発の爆弾が飛行甲板を大破し、飛行機を吹き飛ばし、爆弾や魚雷が自爆するたびに全艦が地響きを立てて震撼し、自爆機の銃弾は豆を煎るように無軌道に眼前を交錯する。無線も信号も役立たない。

 榛名や霧島は健在だった。長良と駆逐艦数隻はまだ戦闘に役立ちそうだ。これらを糾合してさらに最後の一戦を交えよう。(と私は考えた。)

 

 私は、南雲長官に旗艦を変更し、将旗の移揚を進言した。南雲長官は「まだ大丈夫」と言う。青木赤城艦長は、「私は最後までここに残る。南雲長官は他に将旗を移し、全艦隊の指揮を取られよ」と言い、私も司令部の移転を進言し、遂に南雲長官の気持ちを動かした。

 

 青木赤城艦長と決別し、さしあたり駆逐艦に移乗することにした。艦橋から下方の甲板への昇降口、通路は、西林副官の偵察で、通行不能のこと、艦橋からロープで火の回っていない前部に脱出した。

525 私は途中で捻挫と軽度の火傷を負った。司令部の幹部は駆逐艦内火艇*に乗り移った。艦隊機関長の田中実機関大佐は相当の重傷らしい。後で大腿骨折していたことがわかった。

 

内火艇 日本海軍の水陸両用車。1942年採用。

 

木村少将の乗る巡洋艦長良が接近してきたので、直ちに長良に移乗することにし、縄梯子で上った。ここ(長良)の檣(しょう)頭に南雲長官の中将旗を掲揚した。飛竜、榛名、霧島、利根、筑摩と数隻の駆逐艦が集まり、さらなる一戦を企画した。

 

 加賀は総員退去し、駆逐艦に移乗し、数時間後に沈んだ。蒼竜は3時間燃えて沈んだ。赤城は、90マイル離れたところに敵艦隊がいて曳航されるとまずいので、赤城の青木艦長が「処分して良いか」と尋ねてきた。南雲長官が命令を下す前に、500マイル離れたところにいる大和から「処分を待て」と来た。「自分で沈めるには及ばぬ」と命令してきた。

 

 これより先、赤城の青木艦長は総員を退艦させ、一人留まっていた。(センチメンタル)

 山本長官(大和)が(赤城を)曳航できないかと言ってきた。

 航海長が赤城に行って、「曳航して帰れという命令です。駆逐艦に移って曳航作業を指揮してください。」と青木艦長に懇望し、青木艦長も駆逐艦に移乗した。

 その後山本長官の命令で赤城を沈めてしまった。

 

 加賀、蒼竜、赤城は燃えて沈んだが、飛竜は一発も敵弾を受けていなかった。飛竜には第二航空戦隊の司令官山口多聞少将が乗っている。赤城の南雲中将が指揮をとれないとなると、山口少将が航空作戦の指揮官となる。

526 飛竜の航空部隊だけは予定通り発進した。戦闘機が6機、急降下爆撃機が18機。小林大尉を指揮官として攻撃に出かけた。米航空母艦の上空に到達したが、大半はやられてしまった。

 6発は投下して、命中した。(これはヨークタウンであった。)

指揮官小林大尉がやられた。戦闘機3機、爆撃機13機が帰ってこなかった。帰ってきたのが爆撃機5機、戦闘機3機である。

 ヨークタウンは大被害を受けたが、甲板の上には飛行機がなかったから、その分被害は少なかった。

アメリカの空母は損害の復旧が非常に早い。(敗戦の兵の勝者に対するおべっかか。)設備が優秀だ。二度目に攻撃に行くと普通に航行し、甲板の修理もほとんどできていた。

 

 山口少将は飛竜の飛行隊長友永大尉に命じて、(友永はミッドウエーから帰ってきたばかりだったが、)雷撃機10機、戦闘機6機を出発させた。このころには敵の航空母艦は3隻だと分かっていた。

 敵空母を発見したのだが、それは戦闘不能で全部の飛行機を他の空母に移したヨークタウンだった。しかし、ヨークタウンを別の新しい空母だと思って攻撃してしまった。だから無傷の敵の空母は残る1隻だと勘違いした。

 友永大尉は艦上の銃砲火と戦闘機の邀撃(ようげき、迎撃)の中を、魚雷3本を命中させた。米側の発表では「雷撃機16機のうち、8機が来たに過ぎない」と言っているが、雷撃機は10機で、戦闘機6機がそれについた。そしてその中の5機が雷撃に成功し、そのうちの2本は回避されたが、3本は命中した。米側の記録では「この日本の搭乗員は全員戦死した。彼等はヨークタウンを道連れにした」としている。

 友永指揮官はじめ雷撃機5機、戦闘機3機が還らなかった。ちょうどそれぞれ半数が喪われたことになる。

 

527 機動部隊はさらに一戦を交えるべく、飛竜を先頭に夜戦に進出した。

 米の第一次攻撃で日本の3隻がとどめをさされた。米側は、エンタープライズ、ホーネットの二艦にヨークタウンの飛行機を収納し、3艦分の航空兵力を保持していた。米側は第二次攻撃として、13機で飛竜を攻撃した。日の出後12時間、東京時間で午後2時(午後5時)ころである。

 飛竜は4発直撃弾を食らった。榛名、利根、筑摩も襲われたが、被害はなかった。

 その少し前、飛竜は第三次攻撃をかけようとしていたが、飛行機が足りない。全部で戦闘機6機、急降下爆撃機5機、雷撃機4機、計15機だけだった。薄暮攻撃をすることにして待機していた。

 そこへ4弾が命中し、赤城、加賀、蒼竜と同様に、甲板に並べてあった15機が互いに誘爆し合い、火の海となった。飛竜も僚艦と運命を共にした。

 

 (飛竜の)全員を駆逐艦に収容した。翌日の明け方、駆逐艦の魚雷で(飛竜を)沈めた。

 最後の空母飛竜が喪われた。しかし「戦いはこれからだ」というジョンポールジョンの言葉が私の背を打った。敵も相当の被害があるはずだ。今や100マイル以内にいるはずだ。夜襲をかけようと沸き立った。しかし、日没になっても敵を発見できなかった。日本側の飛行機の報告による敵位置は不正確であるが、米側にはレーダーがある。偵察機もある。日本側には旗艦長良の水上偵察機があるだけだ。敵の所在をつかむことは難しい。夜襲の成算もないということになった。

 

 夜戦が駄目なら明朝の黎明戦を考えた。しかしこれも成算がなかった。再起をはかることにした。その時、聯合艦隊から「北西に避退し本隊に合同せよ」との命令に接し、夜のうちに退いた。

 作戦中止が下命され、輸送船団も帰って来た。

 第七戦隊の三隅、最上が逃げ遅れてやられた。これでミッドウエー海戦は終わった。

 

 若い純情な幕僚は、長官以下司令部幹部全員が自決して、罪を国民に謝すべきだと提案して来た。私は、戦局は重大で、己の出処進退を潔くすることだけが能ではない、生存して自分の任務を果たすべきではないか、とこれを退けた。南雲長官にも軽はずみなことをしないように言った。

 

 数日後、長良は洋上で大和と会合した。私は杖をついて大和に行き、山本長官に会い、報告と今後の希望を述べ、連合艦隊司令部には戦況発表を真実のまま伝えるように希望した。(本当か)しかし、例によって大本営の発表は鳴り物入りの戦捷(しょう)を報じた。真実を知り、真に憂喜を共にしてくれてこそ働き甲斐がある。東条首相がいわゆる東亜共栄圏を飛び廻り、これらの人々を呼び集めてヒトラーばりの演説等を行うのを見て嫌気がさした。(すべて東条になすりつけか)

 戦いには見通しがなければならない。

529 ミッドウエー作戦には無理があった。戦争全体に無理があった。人も艦も疲れていた。自分にも驕りがあった。

 ミッドウエーのような陸上基地は不沈空母だ。敵空母の位置が分からなかったので、不沈空母にまず食いついて自らの位置を示さざるを得なかった。米側からみればミッドウエーを好餌として日本の機動部隊の動静を調べ、弱点を見つけて襲い掛かれる。偵察機が早く敵を見つけなかったことも不運だった。

 

 私は今平和日本再建の捨石と思い、役にも立たない残骸に鞭打って微生物肥料の研究に没頭している。時々往時に対する雑音が入る。人の勧めによって過去を回想し、筆を取った次第だ。

 

1949年、昭和24年10月号

 

以上 20201126()

 

 

 

2020年11月23日月曜日

大本営発表 館野守男 1954年9月号 オール讀物 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 メモ・感想

大本営発表 館野守男 1954年9月号 オール讀物 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

メモ

 

 著者館野守男は当時日本放送協会のアナウンサー(当時は「放送員」512)であった。

当時、12月8日の大本営発表は「感激」と看做されていた。510 正午から天皇の大詔が放送された。511毎月8日は「大詔奉戴の日」として、12月8日の放送が繰り返された。

 

畑中健二1912.3.28—1945.8.15は、8月15日未明、近衛第1師団長・森赳中将を殺してから日本放送協会に乗り込み、自らの放送をさせろと息巻いたが、たまたま電話が繋がった東部軍司令部の某参謀の説得で断念し、その日の午前11時ころ、仲間の一人(椎崎二郎中佐)と共に拳銃自殺した。(*本文では切腹とある。)また、放送局を包囲していた反乱部隊は憲兵によって退去させられた。

 

執念の男である。その辞世のメッセージは以下の通りである。

 

松陰先生の後を追うべく自決して、武蔵の野辺に朽ち果てる。敵のために自己の魂も、国も、道も、一時中断させられるであろうが、しかし、百年の後には必ず道と共に再び生きる。護国の鬼となり、国と共に必ず七生する。

 

 今の右翼の心性を理解する上で参考になる。

 

以上 20201123()

 

2020年11月21日土曜日

平和への戦い 岩畔(くろ)豪雄(ひでお) 1966年8月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 感想・要旨

平和への戦い 岩畔(くろ)豪雄(ひでお) 1966年8月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

疑問点

 

・独ソ開戦はなぜ日米交渉を無意味にする505のか。 米は国内の戦闘態勢が整わないので、ソ連への戦線拡大を遅らせようとして日米交渉を日本側に提起したが、ドイツがソ連に参戦したので、日米交渉はもはや無意味になったということか。日米交渉の目的は、ドイツのソ連への参戦を阻止することだったのか。(後述)

 

・米はなぜ英独和平を望まなかったのか。 英独の和平を認めることは、それまでドイツがヨーロッパ大陸で打ち負かしたフランスなどの国々のドイツによる獲得を承認することになるからなのだろうか。

 

・日米交渉が成立しかけたが、日本が急に対米参戦に傾いたのはなぜか。 松岡の妨害・足の引っぱりという一件もあるが、もともと対米和平はありえなかったのではないか。しかしなぜ交渉が成立しかけたのか。

 加藤陽子『戦争まで』によると、7月24日、ルーズベルトのイニシアティブで、日米首脳会談が提案された。7月(岩畔29)(加藤25)日の日本資産凍結、8月1日の石油全面禁輸の前である。

8月7日と9日、近衛首相がルーズベルト大統領に会いたいという訓令が豊田外相から野村大使に送られ、さらに8月26日、近衛からアメリカ側にダメ押しのメッセージが送られた。

しかしこれを野村がアメリカで洩らし、マスコミで報道され、それが日本にも伝わり、当時63万人と言われる右翼を刺激し、米迎合と思われた政治家、宮中、財閥が突き上げられ、日米首脳会談は危険だとアメリカ側(ハル)から野村に指摘され10/2、結局首脳会談は流れた。

岩畔がアメリカを立ったのが7月31日、日本に帰国したのが8月15日だから、すでにその前から首脳会談の流れは進んでいたが、岩畔はその点については触れていない。

 

 

感想

 

日米和平案はアメリカ側の作戦だったのかもしれない。提起したのはアメリカ側である。米国では反戦世論が強かったために、時間稼ぎをする必要があったのではないか。交渉の過程で譲歩を含めて様々な駆け引きが行われたとしても。

 

戦後の米国覇権の時代だから、筆者は日米和平に貢献したと、自慢話ができるのではないか。「君等の命は保証してやる」と米側に言われたことを筆者は自慢話のように語っている。

本書「『戦陣訓』はこうして作られた」の白根孝之によれば、岩畔豪雄は戦陣訓の作成を指導した492というから、この岩畔の平和主義者面と大いに矛盾している。

 

 

ウイキペディアより

 

岩畔豪雄 1897.10.10—1970.11.22

 

1938年、後方勤務要員養成所(後の陸軍中野学校)を創設。

1942年、兵器を研究開発する登戸研究所を設立。

1944年、スパイと商売とを兼ねた昭和通商を満洲に設立した。

1965年、京都産業大学を設立。

 

 

追記

 

加藤陽子『戦争まで』によると、日米協議の開始は反共が目的だったとあるが、355これは、当面はドイツが問題であり、反共は当面の問題ではなく、背景としてあったということらしい。

 

独ソ開戦と日米交渉終了に関する問題解明 加藤陽子『戦争まで』383--387によると、イギリスは対独戦において、米ソに依存していた。日本は米ソに対する影響力を持っていたので、ドイツは人種問題を差し置いて、日本と三国同盟を結び、アメリカが望んでいなかったことである、ソ連に対する攻撃をドイツは開始した。

アメリカは日米協議を通じて、日本に譲歩して、日米関係のうまみ*を提示して、日本をドイツよりもアメリカにひきつけ、ドイツによるソ連攻撃開始を阻止したかったのかもしれない。

 

*1941年4月16日にハルから野村に渡された日米諒解案の中には「満洲国の承認」がある。(加藤陽子『戦争まで』336, 340

 

関連する個所を本文より要約 498, 499

 

この案はカトリックのドラウト牧師、井川忠雄君、私(岩畔豪雄)の三人で作成したが、井川君は通訳だった。4月2日から4月5日にかけてほとんど徹夜で作成した。作成後ドラウト師はウオーカー氏を訪れ、同氏を通じてルーズベルト大統領の内覧に供し、私は、野村大使に提出した。

直ちに、野村大使司会の下で、若杉公使、磯田三郎陸軍武官、横田一郎海軍武官、井川君との6人で審議した。暫くして条約担当の松平康東書記官も参加した。試案の大綱に異論を挟む者はいなかったが、多くの字句の修正をした。

やがて米国側からも、いくつかの修正条項が提出された。我々3人は4月7日から日米双方の意見を参酌しながら、第二試案の起草に取り掛かった。遅々として進まなかったが、4月9日に一応の成案を得た。しかし、この案もその後、修正意見が出て、4月16日の朝に、ようやく最終案がまとまった。

そしてその日(4月16日)の午前中に、国務長官ハルが野村大使と会見し、「この3人の試案を基礎に日米交渉を始めてみたらどうか」と提案した。

外務省宛の暗号電報は若杉公使が起案した。その際、この日米諒解案が米国政府の起案にかかるかのように変更された。4月17日の朝、電送し終わった。(岩畔豪雄「平和への戦い」498, 499

 

 

要旨

 

編集部注

 

 岩畔豪雄は陸軍から派遣され、ワシントンで日米交渉に当たった陸軍少尉である。

 

本文

 

 日米交渉に参加した人は、アメリカ側では、ハル国務長官、バレンタイン氏、ウオルシュ牧師、ドラウト牧師、日本側は、野村吉三郎大使、井川忠雄君、若杉要公使と私である。

 1940年11月末、カトリック僧のウオルシュ、ドラウト両牧師が突然日本を訪問したことが、日米諒解案の発端である。

495 1940年9月日独伊三国同盟が成立し、アメリカは対日輸出制限を強化し、ABCDラインによって日本封じ込め政策を顕わにした。一方日本は、ドイツのヨーロッパでの軍事的大成功を見て、ドイツと協力すれば「対米英戦も恐れるに足りない」の気運が国中に盛り上がり、「バスに乗り遅れるな」という言葉が流行するようになっていた。

 

*加藤陽子『戦争まで』266--273は、バス乗り遅れ論は政策立案者の考えではなく、実際に政策を立案する課長級の人たちは、ドイツのアジアへの進出を恐れていたので、アジアでの日本の権益を守るために三国同盟を結んだという。

 

 ウオルシュ、ドラウト両牧師は、ストローズ氏(後の米国原子力委員長)の紹介状を携えて、日米関係を改善しようとして、農林中央金庫理事の井川忠雄君を訪ねてきた。

 井川君は両牧師と初対面だったが、すぐさま両牧師の構想――日米国交調整案――の虜になった。両牧師は井川君の配慮で、近衛文麿総理、松岡洋右外相、池田斉彬(しげあき、三井財閥)氏などの有力者と会見したが、その構想に異論を挟む者はほとんどいなかった

 井川君は近衛総理の勧告に従い、陸軍の意向を打診するために、12月初め、私を訪問し、二人の牧師を陸軍省首脳部に引き合わすように依頼した。

 私は武藤章軍務局長に伝えた。武藤少将は軽く引き受けてくれた。翌日武藤少将は両牧師を官邸に迎え、彼らの構想に原則的に同意した。井川君によると、彼らの構想にはルーズベルト大統領も原則的に同意しているということだった。

 両牧師の「日米国交打開策」の骨子は、「ルーズベルト大統領と近衛首相が太平洋沿岸(アラスカ又はハワイ)で会見し、日米両国間の懸案を一挙に調整すること」を目的とし、その前提条件として「ヨーロッパ戦争に対する両国の態度」、「日支事変解決策」、「日米通商問題」などの問題に関する両国の意見を調整するというものだった。

 当時日本国内の世論はアメリカに対してやや硬化しつつあったが、政界、陸海軍の首脳部の間では国交調整を希望する者がまだ残っていた。政府は当時欠員となっていた駐米大使に、海軍大将野村吉三郎を選んだ。

 1940年末、野村は赴任に先立ち、陸軍省の阿南惟幾次官と参謀本部の杉山元総長を訪れ、日支事変の経緯に精通している将校を駐米大使特別補佐官として希望し、私が2月5日にその任についた。

496 それは陸軍省事務局御用掛という職名であった。

 井川君が喜んだ。私が抜擢されたとき、井川君も両牧師に渡米を促されてアメリカに行こうとしていた。私は井川君に通訳を依頼した。

 井川君は1941年2月上旬、新田丸で渡米した。それ以前の1月下旬に、野村大使と若杉公使以下の外務官僚は渡米していた。

 

 私は渡米前に松岡外相に会った。松岡は「日米国交を是非とも正常に戻さなければならない。しかし、三国同盟を締結したから、その地固めを優先するために独伊を訪問し、帰途モスクワに立ち寄り、日ソ不戦条約を結び、その後に私は日米国交の回復に努力するつもりだ。君はそのための準備工作をしておいてくれ」と自信満々に言った。

 私は次に前外相で貴族院議員の有田八郎氏に会った。有田は「米国は日本陸軍を好戦的と見ている。君が戦争をしないと先方に諒解させることができれば、日米国交回復は成り立つだろう。」と言った。

 貴族院議員の青木一男氏(後の大東亜相)は、「井川は通訳として不適任である。井川は高橋是清に可愛がられ、傍若無人の振る舞いをして同僚の指弾を受けて大蔵省を去った」と言った。

 

 陸軍、海軍、外務の各省事務局の主な人々は日米和平を唱え、主戦論を唱えた者は一人もいなかった。しかし、個人的には和平論者でも、多数集まると、少数の主戦論者に押し切られ、会議の結果が主戦論に落ち着くことが少なくなかった。1941年初頭の世論の大勢は、まだ和平論だった。主戦論を明確に打ち出していたのは一握りの右翼にすぎなかった。

私は3月6日渡米した。3月30日、ニューヨークに着いた。

3月31日、私はウオルシュ、ドラウト両牧師と会見した。私が彼等に会見したのはこれが初めてだった。私が「三国同盟がすでに存在している。同盟諸国を裏切ることはできない。あなた方が三国同盟脱退を前提条件にするなら、初めから打開の可能性はない」と言うと、両牧師は私の主張を承認した。

 

4月1日、ワシントンの大使館に行った。私は情報担当の寺崎書記官を知っていた。

498 野村大使を除いて、若杉公使以下は井川君を邪魔者扱いにした。

 

4月2日、ドラウト師がワシントンに到着し、私たちと同じワードマン・パーク・ホテルに投宿した。そしてその夜からドラウト師、井川君と私はほとんど徹夜で「日米諒解案」の試案起草に当たった。案の内容は、ドラウト師と私との論議で決め、井川君は通訳をした。

3日後の4月5日に試案を、纏め上げた。われわれ3人は数時間の仮眠を取ったに過ぎなかった。作成後ドラウト師はウオーカー氏を訪れ、同氏を通じてルーズベルト大統領の内覧に供し、私は、野村大使に提出した。

直ちに、野村大使司会の下で、若杉公使、磯田三郎陸軍武官、横田一郎海軍武官、井川君との6人で審議した。暫くして条約担当の松平康東書記官も参加した。多くの字句の修正をしたが、試案の大綱に異論を挟む者はいなかった

やがて米国側からも、いくつかの修正条項が提出された。我々3人は4月7日から日米双方の意見を参酌しながら、第二試案の起草に取り掛かった。遅々として進まなかったが、4月9日に一応の成案を得た。しかし、この案もその後、修正意見が出て、4月16日の朝に、ようやく最終案がまとまった。

そしてその日(4月16日)の午前中に、国務長官ハルが野村大使と会見し、「この3人の試案を基礎に日米交渉を始めてみたらどうか」と提案した。

外務省宛の暗号電報は若杉公使が起案した。その際、この日米諒解案が米国政府の起案にかかるかのように変更された。4月17日の朝、電送し終わった。

私たちは日本政府の速やかな返事を求め、その旨を追記するとともに、野村大使の懇請に基き、私は武藤軍務局長と田中新一参謀本部第一部長に、海軍武官の横山大佐は海軍省に、その旨の電報を打った。

500 アメリカ側も返事を急ぎ、ハル長官は野村大使に数回催促した。なぜそんなに急ぐのか、その時は分からなかった。日本からは何の返事もなかった。*どういう意味か。松岡のことか。

 帰国後私は近衛総理、杉山参謀総長、武藤軍務局長から話を聞いて事情が分かった。

 

 4月18日、政府は挙げて諒解案に狂喜した。近衛総理(当時は外務大臣を兼摂)、外務、陸軍、海軍とも諒解案に同意し、字句の細部にこだわらず、同意の旨を野村大使に訓令しようとする意見が有力だった。

 ところが近衛総理はすぐ打電せず、外遊中の松岡外相の帰朝を待って処理することにした。

 指令に基き、松岡外相は4月22日に帰朝した。松岡外相は、独伊との提携強化と日ソ不可侵条約という二つの輝かしい外交的成果に酔い、自らを英雄と信じ、周囲の人々を問題にしなかったそうだ。

 近衛総理が日米交渉の経緯を松岡に説明しようとすると、「今そんな暇はない。これから日比谷公園で開かれる国民大会に出席しなければならない」と言ったため、近衛総理は大橋忠一外務次官を松岡外相の自動車に同乗させ、説明させた。

 ところが、その話を聞いていると松岡外相は「この諒解案は陸軍の謀略だ」と偏見を抱くようになった。

 近衛総理も外相を兼任していたのだから、即答できたはずだ。

501 私は1941年8月中旬に帰国して以上の事情を知った。

 

私は野村大使の賛同を得て、井川君とニューヨークへ行き、東京の松岡外相に電話した。松岡は「了解した。野村にあまり腰をつかわぬように伝えておけ」と言った。

 私は松岡の無礼な態度に鉄拳を見舞ってやりたかった。私は「全責任はあなたが背負うことになる」と言った。

 

 帰国後、近衛総理、杉山参謀総長、武藤軍務局長、佐藤賢了軍務課長から話を聞いた。それらを総合すると、閣議の席上、松岡外相は東条陸相に対して、「日米交渉は陸軍の謀略だ。岩畔(私)は俺の子分だが、今や陸軍の手先になって、おれに煮え湯を飲ませた」と言ったそうだ。

 

502 5月1日、ニューヨークからワシントンに帰り、松岡との電話内容や、フーバー前大統領との会見内容を野村大使に報告した。

 

 松岡外相は日米諒解案に対する返事を故意に遅らせた。5月12日、ようやく日米諒解案に対する日本政府の見解が到達した。請訓以来24日目だった。

 意見の中に「日米両国共同して英独戦争を調停する」という一項が入っていた。米側はこの問題に触れないように要請していた。この問題を取り上げるなら日米交渉は行わないと最初から言っていた。(そのことを岩畔は日本に連絡しておかなかったのか。)

 松岡はこの問題を主張していた。

 

 野村大使は、日本政府の修正意見を緩和して、「日米共同して独英戦争を調停する案」を日本政府の強硬な主張とせず、あまり重要でないという説明を加えて、米側に手交した。(これはまずいのでは。実際どういう表現にしたのか不明だが。)

 それに対して米側は回答せず、ハル長官と野村大使との会談を重ねた。会談は数十回に及んだ。5月中旬から6月下旬にかけての会談には、野村大使、井川君、私、ハル長官、バレンタインが参加した。

 

 米側は英独戦争の調停案に激しく反対した。会議を重ねるごとに、松岡外相に対する不信の態度が露骨になり、「日米交渉の内容がドイツやイタリアに漏れている」と指摘されるようになった。

 このようなハル長官の言動から、我々は、松岡外相では日米交渉を進捗できないようだ、また外務省の暗号が米国に解読されているようだと判断した。

 

 野村大使の要請に基き、井川君から近衛総理に、陸軍武官から陸相に、海軍武官から海相に、松岡外相更迭の必要を具申した。近衛総理はこれに基いて松岡更迭のための内閣改造を決意した、と帰国後総理から直接聞いた。

 

503 しかし暗号解読の件には何ら対応せず、戦後になってから、外務省の暗号が解読されていたことを知った。我々は道化役者を演じていたことになる。

 

 私はハル・野村会談に8回立ち会った。以下、印象に残る2回について記す。

 その一回は、5月下旬。ハル長官はいつもと違って無愛想な表情で我々をハル長官の私室に招じ入れた。「諸君との会談はおそらく今夕が最後になるだろう。東京の諜君からの情報によれば、東京政府は日米国交打開に熱心でないようだ。しかし、あなた方三人は熱心で誠実だった。日米の関係がどう変化してもあなた方の身柄だけは保証する」とハル長官は述べた。

 野村大使は「この交渉を断念すればただちに最悪の事態が訪れるだろう」と述べた。

 それに対してハル長官は野村大使の言うことが分からないらしく、再三質問をしたが、それでも納得できないようだった。

 ハル長官は「東京の諜君によれば、日本政府はこの交渉での重要な3点、①自衛権の解釈、②門戸開放・機会均等の原則、③日支事変終了後の(日本軍の)駐兵問題について、我々と根本的に異なる見解を抱いていることが分かった」と言った。

504 それに対して私は、「自衛権については、いままで言明したとおり、日米間の食い違いはない。門戸開放・機会均等の原則については、日本側も同意している。この原則は支那だけに限らず、西南太平洋や米大陸、地球全体に公平に適用すべきである。日支事変終了後の駐兵問題については、日本政府も当初の案よりはるかに譲歩している。妥協できるかもしれない。」と述べた。

 この言を受けてハル長官は会談を続けることにした。

 

 ハル長官が我々にハッタリを試みた意図は何か。「東京の諜君」とは何者か。これは暗号が解読されていたことを意味していた。

 この会談の時期は、松岡外相からドイツ側に伝えた日米交渉の内容を、駐日ドイツ大使が本国に打電した時、そして、日米交渉に関するドイツ政府の意見が、(駐独)大島大使によって東京に打電された時とほぼ一致していた。

 

 もう一回は、確か6月21日であった。ハル長官は「独ソ開戦に関する見通しはどうか」と尋ねた。

 意外な質問だった。日本大使館内では独ソ開戦に関して意見が二つに分かれていた。またこれに関してどこからも情報を得ていなかった。野村大使は「情報を入手していない」と答えた。

 ハル長官は期待はずれの表情をし、また、もはや話すべきことはないというそぶりをした。

 

 その2日後(6月23日、ウイキペディアでは6月22日)、ドイツがソ連に進撃した。その(ハル長官との会談の)翌日の晩、大使館員に対して野村大使が、独ソ開戦に関して質問したが、館員の意見はバラバラで、非戦論が大勢を占めていた。しかし私だけが独ソ開戦必然論を唱えた。(私には先見の明があったろう。えへん)

505 散会後、テレタイプ室でテレタイプが独ソ開戦を伝えていた。

 

 6月22日、23日のころ私はこう思った。アメリカは時間稼ぎのために交渉を継続するだろう。交渉が急速に成果を得られる可能性は少なくなった。日本側が交渉を妥結に導くには、これまでの案より要求を下げる必要があるが、日本側も無制限に要求を下げることはできないから、交渉は長引き、最後は決裂し、戦争になる可能性が増すと思った。その予想は的中した。(どんなもんだい)

 

 事態は悪化した。陸軍は関東軍特別大演習を名目に満洲に大部隊を集中した。さらに7月28日、陸軍は南部仏印に進駐した。

 翌日、米政府は抜き打ち的に予告もなしに、在米日本資産を凍結した。(加藤陽子『戦争まで』によれば、これはある程度予想していて、預金残額を減らしていたとある。)

 

 私は滞米が無意味だと思い、井川君と協議し、帰国の決意を固め、陸相に申請した。許可の電報があった。

 7月31日、ワシントンを去り、8月15日に帰国した。

 

 日米の国民の戦争気分は対照的だった。アメリカではルーズベルトを始め政界の首脳は早くから戦争突入の決意を固めていたようだが、一般の民衆は「戦争気分」(対日好戦的気分)はなく、反戦的気分が濃厚で、援英法案は戦争に引き込まれる可能性があるとして、リンドバーグたちは反戦演説会を開き、反戦デモが連日行われた。また反戦映画『徴兵に捕まった』が上映されていた。

一方、私の横浜入港以来、日本人は思いつめたように真剣な表情で、戦争突入の運命から逃れられないと観念しているように見えた。

当時の新聞・雑誌も主戦論記事で満たされていた。

 

日本の指導者とマスコミが戦争熱を煽った理由は、ドイツの強力な軍事力に便乗しようとする計算と、大和魂を過大に評価し、天佑神助があるという妄信であった。

ドイツ便乗主義者は「バスに乗り遅れるな」と言い、彼等は議会、軍部、マスコミを支配した。

大和魂の過大評価は、「精神を鍛錬すれば、技術や兵器は論ずるに足らず」という弊風をもたらし、そのため「物量のアメリカ恐れるに足らず」という結論を導いた。

また、天佑神助の「迷信」が大手を振って罷り通っていた。

 

8月15日から8月29日まで、私が滞米中の件に関して説明するために歴訪した、陸軍省首脳部、参謀本部、海軍省、軍令部、外務省、宮内省、近衛総理、連絡会議などでも同じ印象を受けた。

 8月16日、東条陸相は米国の実情と日米交渉に関する私の経過報告に関心を示さなかった。武藤軍務局長は私の説明を真剣に聞いた。「日米交渉妥結の際は、自分が近衛総理の随員に予定されている」と言った。

507 私の後任の軍事課長眞田穣一郎大佐は「陸軍部内では親米的意見は歓迎されないから注意せよ」と忠告してくれたが、私自身も、陸軍省や参謀本部が反英米的になっているのを感じた。

 参謀本部で私は講演したが、参謀本部は対米交渉よりも南方作戦に熱中していたようだ。

 参謀本部第二部の某課長は、「今や日米戦争は必死だ」「勝ち負けの問題ではない」と言った。

 しかし、英米関係の情報担当の杉田一次中佐は日米戦争を恐れていた。

 海軍省では30名を前に報告した。海軍の首脳部は対英米戦争に慎重であるはずだった、そして上級者は私の説にさも同意するようなそぶりを見せたが、私の報告が終わると、軍令部の某部長が立ち上がり、「ABCDラインは完成に近づいている。時間を無為に過ごすのは自滅を意味する。この情勢を打開する唯一の道は、対英米戦争決行しかないと信じるが、貴君の意見はどうか」と言った。

 私は「まだ日米交渉を継続すべきだ」と答えた。(無駄だと思って帰国したのではないのか。)

 豊田貞次郎外務大臣、天羽英二外務次官、寺崎太郎アメリカ局長ら外務省首脳部は糠に釘だった。

 近衛総理はまだ日米交渉成立に熱意を示し、私に今後もこの日米間の問題解決に専念するように懇請した。

 二度目に近衛首相に会ったとき、日米交渉好転のための具体案を井川君も交えて研究した。私が「日米交渉の成立を望むなら、仏印から撤退すべきだ」と言うと、総理は「私も同感だが、陸軍が承知しないだろう」と言った。

 総理に日米交渉を進める決意はないようだ。

 私は「米国が今日まで日米交渉を問題としてきたのは、日本が三国同盟を結んだからだ。日本が孤立していたら日米交渉はなかっただろう」と言うと、総理は「同感だ。しかし、自分が昨年三国同盟を結んだのは、対米問題と対支問題を片づけるためだった」と言った。深山で人に会ったような思いであった。(どういう意味か。総理はお迷いですかということか。)

 連絡会議は最高決定機関であった。私は主戦論を交渉論に転換するつもりで望んだ。(本当か)1時間半、日米戦力の比較を数字をあげながら説明し、日米交渉を成立させるための条件緩和についても話した。

 東条首相はこの前私の話をろくに聞こうともしなかったが、今回は熱心に聞き、質問もし、「今の講演内容を筆記して提出せよ」と私に言った。

509 ところが翌日8月24日、私が東条首相のところに行くと、私は仏印駐屯の近衛歩兵第五連隊長として転出することになっていた。

 東京の「良識」は失われていた。

 8月28日、私は東京駅を出発した。その時私は、生きて帰れれば、東京の焼け野が原を見ることになるだろうと想像していた。(私の予想が当たった)

 

1966年8月号

 

以上 20201120()

 

 

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