八紘隊は征く 中野実 1945年2月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988
感想 2020年12月10日(木)
岩田豊雄の「二十五歳以下」同様、中野実のこの「八紘隊は征く」も、特攻隊員賛美である。おそらくそういう文章でなければ『文芸春秋』に掲載することができなかったのだろう。中野は特攻隊員に同情をよせつつ、特攻という制度自体を批判することはない。最後は「八紘隊万歳」なのだ。また特攻に反対する隊員の真意をねじまげ、その隊員が真っ先に体当たりするだろうと曲解している。*岩田豊雄も特攻隊員を美化し、そうでない者を蔑んでいる。
*578--579 「渡辺伍長が咳き込み、激しい力を込めて『率直に言います。死ぬのはいけないのだ。内心寂しいと思っています。』と言った。」それに対して中野は、「これだけの言葉を捉えて誤解をされては申し訳ない。これは生と死の苦悶ではない。帰らざる前途を控えて心の緊張が伍長を上がり気味にしているのでもない。それが何分の一か当たっているとしても、決して渡辺伍長は卑怯ではないことを私は強調する。私は渡辺伍長こそ真先に敵艦に突入するであろうことを疑わない。」
中野は芸人や脚本家や画家などが交流する親睦会「三十路会」を立ち上げて1937その幹事役を引き受けるなど、お調子者だったようだ。また中野の、全面的に戦争に協力する態度は、非戦論者古川ロッパから嫌われていたようだ。
本文を読みながら私は特攻を考案する時点で戦争を止めるべきだったと思ったが、それは間違いだと後で気づいた。日本ではそれは不可能だったかもしれない。というのは、真珠湾*攻撃の9人が自爆だったようだし、日清戦争*や日露戦争*でもそのようなことが行われていたと岩田豊雄が言っている573から、1944年時点で特攻は避けられない日本軍の必然的結果だったのかもしれない。中国戦線でも逃げないで全員玉砕があったし、太平洋の島々でも玉砕があったし、沖縄でもあった。特攻は日本古来の普通の戦争法だったのだろう。
*真珠湾での特別攻撃隊・特殊潜航艇(甲標的)
*日清戦争での松崎(直臣)歩兵大尉(佳龍里での日本側最初の戦死者)や原田重吉(平壌の戦いの玄武門破りの英雄、13人の決死隊の一人)
*日露戦争旅順閉塞隊での広瀬中佐*や橘(周太)大隊長(日露戦争遼陽の戦いで戦死し、以後軍神として尊崇された。)
*広瀬武夫。軍神として神格化された。旅順港閉塞作戦で魚雷を受けた閉塞船福井丸の自爆のために船倉に入った部下杉野孫七を探しに行って戻ったところをロシア軍の砲弾を受け戦死した。37歳だった。
追記 2020年12月11日(金)
特攻隊員戦死後の階級特進、叙勲、靖国神社合祀などすべては、特攻隊員を軍神化し、民衆をその後につかせるための小道具にすぎない。
メモ
編集部注
1945年になると特攻が日常化した。特攻は志願とされているが、「任命できないような作戦を行わないのが、指揮する者の本道でなければならなかった。」中野実は従軍文学者である。このルポは「戦時下のものとしては稀有なほどに、死処へ飛び立つものの美しく、あわれな心理に深く分け入っている。」(この表現から判断できるが、編集部は特攻を美化している。やはり文藝春秋。)
本文
575 特攻の八紘隊の隊長は三浦という。私は陸軍省の報道部に属し、八紘隊の取材に来た。八紘隊は明日出発する。八紘隊を取材して記録を残すように指示されて派遣された。私は1921年兵で、支那事変に参加した。1944年9月から1945年春にかけて報道班員として南方に派遣された。私は小説や芝居を書いてきた。私は今44歳だ。
隊員の桑原少尉と門口少尉は連絡のため不在だった。
576 大阪の友人からもらった煙草の「光」10個のうちの1個を含めて土産を差し出した。三浦隊長は、若い隊員は禁煙なのだが、黙認した。八紘隊は明日レイテに向う。
三浦中尉(隊長、22歳)「これまで空輸をやっていた。今月(1944年11月)の11日に新聞で万朶(だ)隊*のことを知った。今度休暇が出て15日に郷里の宇和島に着いたが、その翌日出発しなければならなかった。特別攻撃隊に出ることは知っていた。両親には打ち明けなかったが、分かったらしかった。」
*万朶隊は日本陸軍航空隊の最初の特別攻撃隊である。1944年10月21日、鉾田教導飛行団で編成された。隊長は岩本益臣大尉1917--44である。1944年11月12日から12月20日まで戦った。
1944年11月5日、作戦打ち合わせに向った隊長岩本大尉以下5名が、米軍戦闘機と遭遇して戦死した。
八紘隊は1944年11月27日にネグロス島を出撃してレイテ湾に向い、そこで米軍も認める戦果をあげた。
門口少尉 「母はおろおろしていた。母が泣いてくれるから良いのだ。」
小平兵長 「私はうすうす知っていた。」(本人自身も明確に知らされずに特攻隊員にされたようだ。)
万朶隊の岩本大尉は少年飛行兵の教官だった。(戦死した)岩本大尉の仇をうつのだという隊員の決意が感じられた。
渡辺伍長 「私も休暇が出たとき、攻撃隊に参加するのだということがだいたい分かった。両親には打ち明けられなかった。母は『空輸の方に回してもらえ。その方が安全だ。体当たりしても良いから生きて帰って来い』と言った。」
三浦中尉 「私は空輸の××飛行隊からここへ来て、今日で10日目だ。万朶隊はみなグラマンにやられた。陸軍には海軍より先に特別攻撃隊があった。」
三浦中尉のこの時の表情ほど美しいものはない。生死を超越したとか、死生観を割り切ったとかではない。(それではどういうことか)死なせたくない。私はその時そう思い続けた。」
利光兵長 「休暇が突然出た。攻撃隊に出ることは知らなかった。家に帰るとき電報を打ったが、家には誰もいなかった。稲刈りをしていた。田圃から帰った父は私を見て、まさかと思ったらしい。」
吉村兵長 「家に帰って万朶隊の話をした。『私も特攻隊に出るかもしれない』と言うと、父はただ『そうか』といい、母も『兄弟が多いから誰かが手柄を立てるだろう』と言った。私は『自分が一番早く第一線に立つ』と言った。去年の夏郷里に帰った時は中学の同級生で不良かぶれの者もいたが、今度帰ったときは、みんな志願したという。」
578 入江兵長 「郷里は九州だが、父は朝鮮にいる。電報を打ったが会えなかった。一度会っておけたらと思う。」
どんなにかこの「神鷲」(美化)は父に会いたかっただろうか。三浦隊長は出発が1日延びたので入江の父親に大阪まで出てきてもらうように言った。
小平兵長 「郷里に帰ったとき先生に会ったが、先生は『無駄死にするな』と言ってくれた。先生には打ち明けなかった。父は隊に面会に来てくれた。父は諒解してくれた。」
小平兵長は19歳である。先生、安心してください。そして小平兵長の最後の言葉を喜んであげて下さい。(センチ)
寺田兵長 「何も言うことはない。休暇をもらって郷里に帰る途中、汽車でも電車の中でも、私が航空隊の者であることを知って、みんな親切に席を譲ってくれた。「国民の期待を強く感じ、責任の重さを感じた。」(哀れだと思われたのでは)帰省中に万朶隊の戦果が発表された。家族も私のことを期待している。」
寺田兵長は19歳。「皇国の神兵」たる19歳の熱血と燃えるような肉体とがよく裏打ちしている。
渡辺伍長 渡辺伍長は咳き込み、激しい力を込めて「率直に言います。死ぬのはいけないのだ。内心寂しいと思っています。」と言った。
これだけの言葉を捉えて誤解をされては申し訳ない。これは生と死の苦悶ではない。帰らざる前途を控えた心の緊張が伍長を上がり気味にしているのではない。それが何分の一か当たっているとしても、決して渡辺伍長は卑怯ではないことを私は強調する。私は渡辺伍長こそ真先に敵艦に突入するであろうことを疑わない。(うそ)
579 春日軍曹 「家に帰ったとき万朶隊のことが発表された。その時初めて自分も特攻に行くと思った。母に本当のことが言えなかった。(本人にはある程度特攻任務があるかもしれないことを知らせてあったのかもしれない。)別の家から電報を打った。その前に、母が感づいて私を追いかけてきたので、私は駆け出して母を振り切った。本当のことを話すべきだった。」
私は鼻がしらがじいーんとして、目をそむけた。
野沢曹長 「私は休暇が出たとき、特攻隊に入ったことが分かった。母は胃腸病で長い間寝ていた。自分も健康を傷めていた。私は母に打ち明けずに帰隊した。父はしっかりやって来いと言った。」
580 倉知軍曹 「私はこれで戦地へ行くのは三度目だ。休暇で家に帰ると、万朶隊の戦果の発表があった。岩本大尉や私の戦友の名が出ていたので、うちの隊から出た人たちだと言ったら、母がお前も体当たりするのかと言った。私はまた帰るからと言った。父は、正月から手紙をよこせと言った。」
桑原少尉 「初めは気持ちが整理できなかった。母に南方に行くかもしれないと言ったら、覚悟したようだった。父は軍人で、いいところで死ねと言った。」
三浦中尉 「世の俗塵を去って、日本の軍人としてこうして死ぬのも、第一線の部隊が地上で戦うのも、海上で軍艦と運命を共にするのも、臣民として同じだ。華々しさを求めて、それに汲々として行動することのないように、どこの野辺に散ったか分からないように、任務を遂行したい。今日鹿島神宮を参拝し、錬成道場に導かれた。宮様しかお入りにならないようなところへ通していただいた。もったいないことだ。宮司様が、あなたはいずれ神様になられるのだと言われた。」
581 神の礫(つぶて)のように私は胸を打たれた。(もっともらしい)
門口少尉 「光栄だ。地上部隊は悪戦苦闘している。部隊長閣下をはじめみなさんに激励していただき、感激だ。覚悟してりっぱな戦果をあげたい。」
本部との連絡に中座していた桑原少尉から、明日の出発が一日延期になったと報告があった。これは隊員たちの親御や同胞たちの心に通じるものではないか。それともそんなことを考えるのは女々しい未練か。
万朶隊の歴史は伝統となってすでに八紘隊の隊員の血潮に脈々と波打っている。
第二日
特攻機に機付きの整備兵が同乗する。左右の回転数が異なる飛行機がある。××のような双発機は左右の回転数が同じでないと、離陸時に事故を起こす。
583 飛行機に爆弾をできるだけ沢山積むため、取り去るべきものとして、防弾鋼板、無線、酸素、同乗者銃架などを三浦隊長が指示した。離陸即死、肉体即爆弾である。
三浦隊長「明日の見送りに総監閣下がおいでになる。みんなセイセイと出発するように努力せよ。」
このセイセイは、正々堂々とすがすがしく整然とという三つの意味が合わさったセイセイなのだろう。
三浦隊長「飛行場上空で翼を振る。」
584 飛行機は屠竜である。飛行機を操縦できるまでに育て上げられた隊員を犬死させたくない。
桑原少尉「飛行機は私たちの棺桶ですよ。」
私は桑原少尉のこだわりのなさを羨ましく思った。特別攻撃隊の人にとって、飛行機は魂だ。忠誠心に貫かれた魂の箱だ。
585 桑原大尉は飛行機から降りると、飛行機に向って挙手の敬礼をした。
三浦隊長には心のエアポケットがない。純一無雑、すべて攻撃という一つの目標に集中されている。(リップサービス)
私にとって飛行機の質とは飛行機が故障しないなど飛行機の性能のことだが、三浦隊長の考える飛行機の質とは、爆弾をどれだけ多く積めるかということだった。
586 小冊子を読み合わせる。「操縦者は生死を超脱し、捨て身必殺の精神をもって、…」
三浦隊長「俺たちはV2号が出来上がるまで、この覚悟でもってやるんだ。操縦技術の未熟は精神力をもって補う。必突より必達が肝腎だ。」(今頃こんな座学をしているのか。)
587 敵艦船には4メートルごとに機関砲が一銃ずつ設置されている。
588 息がつまる急降下超低空爆撃(跳飛爆撃)の試験飛行が始まった。実戦そのものだ。
589 米軍は大砲を海中に向けて爆発させ水柱を立てさせるらしい。4メートル間隔の機関砲がもたらす水柱を、飛行機は避ける事ができるのだろうか。
桑原少尉 「空中勤務者には以前はなかなかご馳走があったが、この頃は地上勤務者と同じで、朝と夜は麦飯。そこで部隊長に頼んでせめて今度出てゆく隊員には夜も白飯にしてもらった。」
第二将校室にはもちろん火の気はなかった。
590 食事は一汁二菜。
桑原少尉が計理室から不時着のために千円預かってきた。
三浦隊長「千円…。機付きの分も一緒か。」
桑原少尉「最寄の部隊に行けば給養があるから金は要らぬというのであります。」
三浦「不時着の場合、部隊が近くにない。」
私は隊員から「先生」「閣下」扱いだ。台湾沖と比島沖で最近死者出たが、同期生の物故者名簿にそれがまだ載っていない。
三浦中尉は周到綿密。自分の成案ができるまではかりそめの口をきかない。口を開けば断然たる決意。人の長としてのあり方、しつけ、態度、指揮能力などはこの人の天稟(びん)なのだろうか。それとも軍隊の教育のせいか。私はまだ修業が足りないことをこの人たちから教えられた。
出撃の日 食堂に「和親協同、忠君愛国」の扁額がかかっている。桑原少尉の鶏卵が腐敗していたので、私は自分のと交換した。
593 隊員は、一装用の晴衣を着て、首に白絹を巻いている。その白い絹の襟巻きが、今でも私の眼に凛々しく、清らかに、深い哀傷を伴って染み残っている。
もののふもいったん討ち死にと決めたからは、鎧物具美々しく着飾り、戦場に赴くのが世のならい。こんな言葉が思い出された。
女々しいのでもない、卑怯未練なのでもない。若武者の征衣のよそおいに涙せざるものあらんや。哀傷哀感ことごとく尽きるところに、猛然たる闘志も沸(たぎ)りたつのである。(などとまた美化している。)
準備の都合で予定の試験飛行はできなくなった。
明日出発の24、5名の搭乗員が入って来た。生徒たちは日の丸の旗を取り出し、見送りのために格納庫へ向った。
白鉢巻の女子事務員が現れた。眩しそうに門口少尉を見上げる少女の瞳。
地元の人が見送りを許されて旗を振りながら到着した。
写真班が来ている。
595 私は隊員たちに別れの挨拶をした。さっきの別の隊が急降下超低空飛行の演習を行っている。部隊の職員も集合した。
女学生の一団が三浦中尉ら隊員たちに駆け寄った。今日ここに集まった地元の人は、一億の醜草(しこぐさ)を代表し、特攻隊の人々に心からなる感謝と感激の誠をささげていたのだ。
自動車が二台、先頭の車から菅原航空総監。続いて陸軍大臣・参謀総長代理の松村陸軍報道部長。そして部隊長。
航空総監は自動車から降り立って一同に挙手の答礼。一瞬、げきとして、天地に声なし。総監は隊員の前に歩を運ぶ。
三浦隊長は敬礼の後、隊員の中央に出た。
「申告いたします。八紘隊、三浦中尉以下、ただ今より征途にのぼります。ここに謹んで申告いたします。」
この人がと思われるほど凛々たる声。
「諸子は選ばれて八紘隊の一員となり、…」総監がすこしさびのある声で烈々たる訓示を与える。
「決戦場裡に赴くことになった。当方面における戦況は、まことに鍔(つば)ぜり合いであって、その際における一機一弾の価値は極めて大である。今やまさに棒が倒れて、地につこうとしているのである。諸子の同僚は、すでにその一機一弾となり、国民の感謝するところである。諸子もまた必ずや国民の期待に添うことを心から信じまた厚く信じて疑わない。我々もまた、国民も必ず諸子のあとに続く。どうぞ平素の訓練を発揮し、充分の働きをしてもらいたい。が、決して若気の至りで暴虎馮河(ひょうが)の勢いはくれぐれも慎むように。諸子の任務はまさに重大である。器材の準備に心して、途中において遺憾のないように、必達の研究訓練をもって、千載一遇のこの好機を捉え、乾坤一擲(いちかばちか)十二分の働きを願う次第である。終わり。御機嫌よう。」
596 松村陸軍報道部長の、陸軍大臣と参謀総長の壮行の辞の代読があり、部長としての激励の辞。
「諸子は一億国民の先鋒となって、いかに国民の戦意をかきたてたか、必ずやあとに続くものあるを信じてもらいたい。」
部隊長の決別の辞
「…武人としてまことに恵まれたり。歯を食いしばってゆけ。我ら全員必ず続く。…」
溢れるばかりの慈父の言葉に、私は胸を打たれた。(嘘)われら全員必ず続く。(嘘)総監も言われ、部長も誓われた。が、朝に夕に、いわば手塩にかけて育ててきた特別攻撃隊隊員の上官としては、ひとしお切なるものがあったことと想像する。(ごますり)私は泣いた。(嘘泣き)否、おそらく、三浦中尉をはじめ隊員たちは、私以上に感激し、武者震いし、必殺の闘魂を燃えたたせたことであろう。(勝手なことを言うな。)
部隊長は握手の後「よし。行け。」と命じた。
三浦中尉は隊員を引率して見送りの人々に挨拶して廻る。そのとき、さっきの少年飛行兵の一群が日章旗を振り出した。声援と気魄。歓声のどよめき。
「八紘隊万歳。」
597 花束が贈られる。三浦中尉は一散に向こうへ駆け出した。
見事な編隊飛行。
「八紘隊万歳。」
1945年2月号
以上 2020年12月12日(土)
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