二十五歳以下 岩田豊雄 1944年12月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988
感想 2020年12月8日(火)
この一文は、特攻隊員がこれから出撃に向う時の心情を、様々に描いたようなのだが、非常に主観的で断定的な文体で分かりにくい。「私」が誰のことなのか、説明がない。
筆者岩田豊雄1893.7.1—1969.12.13は、『娘と私』の著者獅子文六の本名のようだ。『娘と私』は私小説で、その内容は、筆者がパリでフランス人女性と結婚し、帰国後娘が生まれるが、妻が病気になり、フランスに帰って、そこで死んでしまう。私は再婚し、娘が結婚するまで育て上げたというもので、この一文と比較すると、同一の作者なのかと疑いたくなる程だ。
追記 2020年12月9日(水)
文中の「私」はどうもやはり筆者獅子文六(岩田豊雄)のようだ。薄弱な理由だが、岩田の郷里が横浜市中区だから「神奈川県の田舎」に出向きやすいと考えられる。
メモ
編集部注
1944年10月、米軍がレイテに上陸した時、特別攻撃隊が組織的に編成された。特攻は、圧倒的な戦力を持つ米軍に対する日本軍のほとんど唯一の戦法となった。敗戦まで陸海軍合わせて3500人以上が亡くなった。
本文
570 私はいま神奈川県の田舎に来ているが、田圃道で会う青少年の、感服できない顔つきと違って、私の知り合いで、昔はあどけなかった少年が、激しい訓練の江田島*を志願した。
*江田島 海軍兵学校1876—1945 海軍の将校を養成した。
571 かつて都会やインテリは評判が悪かったが、そこから「優秀な人材」が生まれている。
神風特別攻撃隊敷島隊の発表を知った。それは真珠湾の特別攻撃隊に次ぐ感動だった。
日清戦争時の松崎大尉や原田重吉は(当時)相当な年輩だった。また日露戦争時の広瀬中佐、橘大隊長も(当時)年輩だった。しかし今度の戦争では緒戦から20代の軍人の活躍が目覚しい。人生二十五歳説は今回が初めてだ。
横山少佐は大将になるつもりはなかった。江田島の軍神クラス前後の各班も、そういう意志だったし、今の在校生もそういう意志だ。
敷島隊と真珠湾の特攻隊とはよく似ているが、真珠湾攻撃に参加した人たちに関して、私は不思議に思い、参加した人たちは特別の人たちで、その人たちを生んだ海軍や郷土や家庭について調べてみたいと思ったが、今回の関行雄大尉*(戦死後中佐、敷島隊隊長)についてはそうは思わない。
572 中野飛行兵曹長*についても同様だ。
*関行雄1921.8.29—1944.10.25
*中野磐雄(なかのいわお)1925.1.1—1944.10.25 10月25日、フィリピン、マバラカット基地発進、第一神風特別攻撃隊敷島隊員・海軍一等飛行兵曹として戦死した。
家庭や郷土、学校などは決定的要因ではない。あらゆるところから特攻隊員が生まれているからだ。彼らを突き動かしたものは、若さの中の何ものかであるが、思想ではない。
人生二十五歳説は、彼らの実践によって、その意味が明らかになった。それは思想だ。(混乱)
私は30年ぶりに幼馴染の白隠禅師に会った。その方丈の中に、片翼帰還機の写真が掲げられ、S少将の名前と贈り主である和尚の名が記されていた。
573 S少将はS大佐として有名だが、霞ヶ浦時代、隊員に影響力があった。S少将は禅宗に死生観よりも宗教心を求めたようだ。Sは、戦死した部下の家に行って冥福を祈った。
旅順閉塞隊*には水雷艇*が出動して救済した。特殊潜航艇*も万死に一生の方策がないでもなかったので山本長官*も許可したそうだが、今回はそれとは違う。敵はV・1号(ロケット)*が来たと思った。
敷島隊出撃の写真をみて私は感動したが、私が感動したのはこれで2度目だ。1度目は盲目の白衣勇士が恩賜の菊花を撫ぜている写真だった。敷島隊出撃の写真で、司令は副長に支えられ、膝だけしかない片脚で松葉杖をついていた。
574 司令は感情を表すことができない。
二階級特進の佐藤中将*は「無事に帰ったら百姓になる」と言った。
*佐藤幸徳1893.3.5—1959.2.26 か。インパール作戦で師団の独断退却を行った。
関中佐は24歳。部下の隊員は、21歳、20歳、全て25歳以下である。
彼らはこれから輝かしいことを成し遂げるだろう。私には軍神や神鷲を含めた若い世代についてどう表現していいか分からない。
1944年12月号
以上 2020年12月9日(水)
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