2020年12月5日土曜日

「兵隊製造人」の手記 神戸達雄 1955年2月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 感想・メモ

「兵隊製造人」の手記 神戸達雄 1955年2月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

神戸達雄(かんべたつお)某goo blog の中に「陸軍中佐」とあるだけ。

 

 

感想 2020125()

 

Aさん、B先生、そして仮病を使って兵役を逃れるお金持ち、いずれも「悪者」だが、そういう「悪者」がいるから筆者が戦争中にやっていたことは免責されると考えるのか。そういう「悪者」になる可能性は誰にもあったはず。それより、なぜ、そういう誰も兵隊になりたくないような戦争をしたのかという点に思いを馳せないのか。また筆者は日本軍部を誇りに思っているようだ。

 

 

メモ

 

編集部注

 

 教育勅語に「一旦緩急あらば義勇公に奉じ」とあるように、兵役は日本男子の最高の義務であった。そして「死は鴻毛より軽し」として、赤紙一枚で若者はつぎつぎに戦場に赴いた。

 

 

本文

 

556 1937年7月の支那事変勃発から1945年8月の終戦まで、兵籍のあった日本人男子は、四六時中戦々兢々たる日常を送っていた。いつ俺に召集令状が舞い込むか、この何物にも優先する「赤紙」の脅威に曝されていた。

 一度赤紙を受け取ったら、すでに好むと好まざるにかかわらず、それは直ちに死を意味した。当人は勿論、その家族の受けるどん底の思いは、現在が平和であるだけに、測り知れないものがあった。(戦後の今だから、こんなこと(死やどん底)が言えるのではないか。)

 230万人にもおよぶ戦死者と、15万人の戦傷病者、400万人の遺族が、一枚の紙片の乱舞によって生まれた。(中国人など他国の犠牲者への思いはないのか。)

 

 戦後すぐ、つぎのような噂があった。技術方面の某官吏が見解の相違で東條英機首相の逆鱗に触れ、召集令状という合法的手段によって抹殺が企てられたが、彼は幸運にも生きて帰れ、戦後は代議士になったというものだ。

 

557 召集令状を誰にするか、私の意のままにできた。

 「昭和2年から5年までの徴集年次、未教育二国*、3300人、3月1日午前10時××海兵団」という指示がわたしの部署に来る。300人は事故・病気で即日帰郷する人を加算したものだ。

各地方別の兵籍名簿(軍名)に赤紙を適宜差し込む。平均を取るために、差込の混んだ地方から抜き取って、疎らな地方へ差し替える。各聯隊区司令部でこれを行った。

 

 私は1943年初頭から終戦まで、赤紙が乱舞した最盛期に、名古屋聯隊区司令部に勤務していた。召集の実務は、私などが直接指導し、司令部に勤務する若い下士官や軍属、時には徴用の20歳前後の娘が手伝った。

 汚職の臭いがあれば、生還不能の戦地に飛ばされた。複雑巧妙な仕事であるため、新陳代謝(異動)が激しかった。だからこの経験をした生存者は少ないだろう。

 

558 しかし、次のような例もある。Aは私と同じ勤務であった。

 Aは下士官から軍属に転じ、37歳で、司令部での経歴も古かった。部内では一派を形成し、半年や一年前に司令部に来た左官級でも、Aに頤で使われた。Aの逆鱗に触れたらこちらの首が飛んだ。

 ある日Aは在郷軍人10数名の名前を我々に示し、

「これは俺の親類の者だ。召集してももちろん差し支えないが、その時はちょっと俺に連絡してくれんか。」

と何とでも解釈のできる、含みのある言い方で、一人ずつ名前を印した色付箋を示した。彼の命令とも言えない命令に即して、色付箋はすぐに該当者の軍名に貼り付けられた。

 Aの示した色付箋組の職業は、会社の重役が圧倒的に多く、さらに配給事務に携わる上役、料理屋の主人、知名人などだった。

 徴兵検査を受け、甲乙兵の三種に分けられ、兵籍原簿に記入された。この原簿は聯隊区司令部に保管され、これから在郷軍籍人名簿が作られた。これが軍名である。

559 軍名には、本籍地、現住所、氏名、生年月日、学歴、今までの職業、徴兵年次、役種、兵種(歩騎砲工輜重衛生の別)、体格、特技等々、軍務に関係すると思われることは一切記入された。

 軍名は参謀本部作成の地図とともに日本軍部の世界に誇るものだ。調査・研究が徹底され、整然と整頓されていた。(そのくらいのことはどこでもやっていたのでは。)

 

 兵籍名簿の写しが市町村役場の兵事課にもあった。聯隊区司令部と市町村役場との連携事務手続上の時間差を利用し、転居を繰り返して兵役を逃れる可能性もありうる。

 

 「私は正義と無私に立脚し、真に最強の軍を造るのに没頭していた。良心と正義感で仕事に励んだ。」(よくこんな法螺が言える。)

560 B先生は姦策を恣にして貢物を吸い上げ、ゆったりと産をなした。Bは司令部に入ったことを知人に知らせ、仕事内容を教え、相手を恐怖のどん底に陥れた。

 Bは資産家の相手を召集させずに温存し、脅してたかった。相手に召集令状が下ったと嘘を言い、自分が上役に掛け合って免除してもらう、その代わり社会的貢献をせよ、と言う。

 

561 本土決戦、水際作戦のころ、大動員があった。当時兵役にあった者はほとんど当たりつくし、残った者は国民皆兵組の未教育二国が大半だった。19歳の少年と43歳の父親が同時に入隊したこともあった。彼らは丸腰で水際の塹壕掘りに使われた。

 

 私は二国召集の係長だった。大正13年徴兵は、当時43歳である。社会の中堅を占める人が多いから、色付箋組が大勢出ることが予想された。私たち「正義派」は、「どうせ三ヶ月で除隊する人ばかりだから、色付箋に考慮しないで選考しよう。」と私は提案した。

 私は赤紙を完成した直後から非難を受けた。

562 召集当日軍医さんがやさしい声で、「体に自覚症状がある者は一歩前に出ろ」と言った。

忠勇義烈の応召者は、無理をしても入隊したかった。即日帰郷の汚名に浴したくない人が全部であるはずだが、前に出た人は色付箋組だった。23人の色付箋組中の19人が即日帰郷となった。

 

 これとは反対に気骨稜々の風格ある血書の従軍歎願も2年間で30枚あった。しかし、中には三角関係の恋仇を抹殺するために血書を偽造した場合もあった。(笑い話か。)

 

1955年2月号

 

以上 2020125()

 

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