2020年12月27日日曜日

兄・文麿の死の蔭に 近衛秀麿 1952年3月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 感想・メモ

兄・文麿の死の蔭に 近衛秀麿 1952年3月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

感想・メモ

 

 近衛秀麿1898.11.18—1973.6.2は指揮者・作曲家。本文を読んでいて、気風の良さそうな印象を受ける。本人もそれを自認している。

近衛家は代々政治家型と学者型とにはっきり別れていて、秀麿は政治家型・実行型だが、兄の文麿は学者型、思想家型で、政治家には向いていなかったのかもしれない。687

 兄文麿については、自分との関係であちこちで述べられるが、兄自体についての記述は、最後の方で、その自殺に関して僅かに触れられるだけで、本文全体としては、秀麿本人の自伝である。

 

 1937年6月、兄が首相になったが、その年の夏、秀麿はロスアンゼルスやハリウッドで公演してから日本には戻らずドイツに向った。そこでドイツのオファーを断ったために、冷や飯を食わされた。ドイツ敗戦頃にベルリンを脱して、アメリカ軍の捕虜になり、1945年12月6日に帰国した。

 アメリカから日本に帰国しなかったのは、自身の音楽教育政策の提案(若手起用や放送協会の利用など)が、日本の音楽教育者に受け入れられなかったことがある。694

 ドイツでは歌劇の指揮者になった。ドイツ宣伝省が政治宣伝に自分を利用することは、自分や日本のためにならないと思って辞退した。そのためドイツの宣伝大臣と駐独日本全権大使の激怒を買った。659

 12月6日、日本に帰ったが、朝日新聞で、兄を筆頭に7人がA級戦犯として巣鴨に出頭を命じられたと知った。696

 兄は秀麿に言った。「生きている間は人からどんな型でも表彰を受けないほうがいい。」

敗戦直後、売名的に辞爵を叫んだ華族は、その後変心し、進んで辞爵したのは、自分を含めて3人くらいしかいなかった。697

兄は巣鴨への出頭日の前夜、12月16日の夜に自殺した。

 

近衛家は、頭山満、内田良平ら、大勢の「大陸浪人」=右翼と関係がある。685

父は20歳の時、第一回議会の初代代理議長を勤めた。684

兄は社会主義について語ってくれた。「飯の食えない人が大勢いるのだ」687

兄とは腹違いの兄弟であるが、兄の母は加賀前田家の娘で、兄の産後亡くなり、秀麿の母は、その妹である。

兄弟とも学習院で学んだ。

「私が中学に入ったとき、乃木大将が院長だった。私が喧嘩して怪我をして医務室にいたとき、乃木院長は自宅に帰らず、私に日露戦争の時の話をしてくれたが、乃木院長は話をしながら涙ぐんだ。乃木院長はその2ヵ月後に自殺した。」689

 

母は1945年8月15日正午に息を引き取った。695(自殺か)

マッカーサー司令官が兄に憲法改正の草案起稿を委嘱したと、米軍の捕虜になっているときに、ヨーロッパの新聞で読んだが、それを後になって公式にその事実はないと(マッカーサーに)声明された。兄はその時に自殺を覚悟したと思われる。695

 

以上 20201226()

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