戦争医学の汚辱にふれて 平光吾一(ひらこうごいち) 1957年12月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988
感想 2020年12月20日(日)
米は空襲によって無辜の日本の民衆を殺した、だから無差別爆撃を行って捕虜となった米軍パイロットを殺してもいいと筆者は言うが、それは時代錯誤の喧嘩と同じではないか。米軍パイロットも好き好んで日本の上空に来たのではあるまい。日本が米国に戦争を仕掛け、それに対応するために米国民は徴兵や志願を通して軍隊に入って、部隊の一員とされ、任務を与えられて来たのではないのか。だから戦争にもルールがあり、それが陸戦規定ではないのか。
また、民間人を巻き込んだ無差別空襲は、別個に問題とされなければならないが、日本も米軍の空襲以前に、重慶で無差別爆撃をやっている。
米が神であるとは言えないことには同意する。人肉試食がでっち上げだったことは確かなようだが、だからといってこの戦争の問題を、勝つか負けるか、勝てば官軍負ければ賊軍という問題に還元できるのだろうか。それは短絡であり、論理の飛躍ではないか。
筆者は戦争に負けたことによって、日本は主権を否定されたと言うが、日米には全く同等の正義があったのだろうかという問題はないのか。例えば、どちらが先に戦争を仕掛けたのかというも問題や、民主主義か、それとも軍国主義・全体主義(自己中排外主義)か、という政治制度の優劣の問題もあるのではないか。
日本空襲を担当した米軍パイロット8人627の生体解剖を行った九州大学医学部教授にとって、このことはとばっちりだったようだ。場合によってこの生体解剖が一民間病院(佐竹外科病院630)で行われていたかもしれないのだ。そこで断られたために発案者の偕行社病院詰見習軍医・小森卓が、九州大学医学部の恩師である石山福次郎教授に、「軍(佐藤参謀大佐630)の命令だとして」引き受けさせたと読める。当の教授は監獄の中で自殺した。
筆者は医学の進歩のために生体解剖を容認するかのようだが628、私は、戦争という非常事態であれ、生体解剖を肯定・賛美する考えには賛成できない。非人道的だ。人類福祉630のためになるというのは詭弁だ。
「医学の進歩は、その歴史を省みる時、このような(ドイツのブラントや、イギリスのハーヴェーなど)戦争中の(生体解剖の)機会を利用してなされていることが多いのだ。生体解剖それ自体の行為はもちろん許されるべきではない。しかし、その許されざる手術をあえて犯した勇気ある石山教授が、自殺前せめて一片の研究記録なりとも遺しておいてくれたら、医学の進歩にどれほど役立ったことだろうか。犠牲者の霊も幾分なりとも浮かばれたであろう。」628
石山さんは死んでもいいから記録を残しておいてくれ、医学の進歩のためなら、死んだ米軍捕虜の霊が浮かばれる、と読める。命の尊厳を無視した医学進歩至上主義、ドラキュラ博士ではないか。
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