2020年12月3日木曜日

西田幾多郎の敗北 大宅壮一 1954年6月号 秘録実話 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 感想・要旨

西田幾多郎の敗北 大宅壮一 1954年6月号 秘録実話 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

感想 2020121()

 

軍事政権に異論を言う奴に対するテロの連続、これが戦前の特徴だ。

幕末・明治以来、暗殺の連続だ。桜田門外の変1860、孝明天皇の毒殺1867、戊辰戦争1868-69、佐賀の乱1874.2、西南戦争1877、大久保利通の暗殺1878、福島事件1882、群馬事件1884.5、加波山事件1884.9、秩父事件1884.10—11。関東大震災時の朝鮮人・中国人・社会主義者の殺戮1923。共産党員の拷問・殺人(小林多喜二1933)。

近いところでは、三月事件1931、十月事件1931、血盟団事件1932、五・一五事件1932、二・二六事件1936

もっと近いところでは、近衛文麿暗殺計画1941、在京駐日米大使館員暗殺計画1941

 

そしてこの西田幾多郎暗殺計画1943

西田は思想よりも自分の肉体を保つことを優先した。西田の暗殺計画の前に、三木清が捕まっていた。

 

戦後はなくなったかと言うと否。浅沼稲二郎刺殺1960.10.12、風流無潭事件1961.2.1、赤報隊による朝日新聞社襲撃1987.5.3、本島等長崎市長銃撃1990.1.18

 

異論を言う奴に対する国家的テロの連続、これで日本の道筋が決まってしまった。ヒトラー・ドイツとよく似ている。悲しい日本の歴史だ。

 

 

ウイキペディアによれば、

大宅壮一1900.9.13—1970.11.22は醤油屋の息子。父も兄も太っ腹の人だったようだ。大宅壮一は茨木中学時代、米騒動に賛同して民衆蜂起を支持する演説を行い、茨木中学を放校処分。専門学校入学者検定試験に合格して、三高に入学。1922年、東大文学部社会学科に入学したがほとんど出席せず、また学費を払わず、除籍処分。

第七次『新思潮』の同人で三高時代の同級生の小方庸正や、茨木中学の先輩の川端康成(第六次『新思潮』)などを通して文筆を業とするようになったようだ。

 

この一文は張り詰めた、真に迫って来る文章だ。よく調べた。ノンフィクション・ライターとのこと。しかし、やや情緒的な文章だ。

 

 

 

要旨

 

編集部注

 

 1943年11月、東京で大東亜会議が華々しく開催された。参加国は、日本、満洲国、国民政府、タイ、ビルマ、フィリピンの各代表で、これに自由インド仮政府も加わった。大東亜戦争完遂と大東亜共栄圏建設を目標とする大東亜共同宣言を発表した。

 この宣言の草案を書いたのが西田幾多郎だった。

 

 

本文

 

546 平和産業としての文化人や文筆業者が転業しつつある。

 今この国の思想界も〝二つの世界″に分かれて抗争しているが、西田幾多郎は双方の偶像である。

西田門下の人々の大部分が、今では反動とは言えないまでも、保守陣営に属しているが、中には三木清のように獄死している者や、柳田謙十郎のように進歩派哲学の先頭に立つ者もいる。

547 西田の弟子たちのほとんどが知らない西田の秘密がある。それは西田が〝大東亜宣言″の草案を書いたということだ。

 

 東條英機は〝大東亜会議″を企画、演出、主演した。1943年11月5日の東京でのこの会議に出席した人は、東條首相自身、中国国民政府行政院長・汪精衛、タイ国総理代理・ワンワイタヤコン、満州国総理・張景恵、フィリピン大統領・ホセ・ラウレル、ビルマ国総理・ウー・バ・モウの五カ国代表と、自由インド仮政府首班・スバス・チャンドラ・ボースであった。いずれも日本軍部の支配下にあった、東亜の国々を率いている人物である。

 

 西田が大東亜宣言の草案を書いたことは、当時新聞に発表されなかった。戦後検閲制度が撤廃された後に出版された『西田幾多郎全集』にも収録されていない。

 

 1943年2月、日本軍はガダルカナルから撤退し、5月、米軍はアッツ島に上陸し、日本軍は全滅した。8月、キスカ島から撤退。11月、ラバウル(1942.1—2, パプアニューギニアのニューブリテン島)が危うくなり、マキン(1943.11.20—23, キリバスのギルバート諸島の一つ)、タラワ(1943.11.21—23, キリバスの首都)の島々に米軍が上陸した。

1943年2月、スターリングラードの独軍が降伏し、7月、連合軍がシチリア島に上陸してムッソリーニ首相が辞任し、9月、イタリアは無条件降伏した。

 

548 日本は占領下の諸民族をこれまでのように武力で抑えていくことができなくなった。

 1943年7月、北部マライ4州のタイ国編入を認めてその歓心を買い、ビルマに独立宣言と対米英宣戦布告を行わせ、9月、ジャワ原住民の政治参与を承認し、11月、フィリピンに独立を宣言させ、自由インド仮政府なるものをつくってチャンドラ・ボースをその主席にすえた。これらは離れ去ろうとする諸民族をつなぎとめようとする苦肉の策だった。大東亜会議はその締めくくりである。派手に演出された。その後東條の地位も、日本の運命も急激に下降した。

 

 1943年5月31日、政府と大本営は御前会議で〝大東亜会議″を開くことを「大東亜政略指導大綱」として決め、占領下の諸民族も一丸として、総力戦体制をつくろうとした。

 

 軍事力だけではもうやっていけない、国民大衆や、特に知的上層部の積極的支持を得ないと大衆がついてこない、〝大東亜共栄圏″に魂を入れなければならない。こういう考えが、一部の「国を憂える」人々の間に起った。

 当時の〝日本最高の知性″は、田邊元、天野貞祐、長谷川如是閑、西田幾多郎らであった。

549 政治家の山崎達之輔永井柳太郎らは、学者の矢部貞治に候補者の選択や橋渡しを相談したが、不調に終わった。

 ところが、金井章次(1888.12.1—1967.12.3, 医師・官僚、蒙古聯合自治政府最高顧問、東京大学)と矢次一夫(1899.7.5—1983.3.22, 労働運動家、浪人政治家、フィクサー(調停業者)、国策研究会創立者)が仲介者として現れた。

 

 金井は蒙疆政権最高顧問で、東大出の細菌学者、満鉄衛生試験所長で、満洲青年聯盟を創設し、満州事変に関与し、盧溝橋事件当時には関東軍の招電でチャハル作戦に参加し、張家口に蒙疆政権を樹立し、金融対策で活躍した。

 矢次は、当時も今もよく知られていないが、当時軍部周辺で活躍した謎の怪物で、1927年、陸軍省調達部嘱託になり、〝大東亜戦争″を推進した将軍は、彼の長年の友人であった。矢次は1937年に「国策研究会」を創設したが、戦後の現在までそれは続いている。*その資金の一部は軍から出ており、軍に対して影響力を持っていた。極東裁判では武藤章被告の証人となった。

 

*ウイキペディアでは1953年6月に国策研究会を再開とある。

 

 金井、矢次は軍の有力者に知己が多かった。矢次はその前に「大東亜建設案要綱」をつくり、軍首脳部やその他の要人にそれを配布した。金井は医者であり政治家であり、哲学に理解があり、西田哲学の熱心な読者であった。

 

二人は語り合って意気投合し、〝大東亜宣言″草案を西田に書かせることに共鳴した。矢次は西田を説得する自信はなかったが、金井は社会学者の田邊壽利を知っていて、田邊は西田家に出入していた。田邊は金井のつくった蒙疆学院の院長であったこともある。

矢次はこの計画を軍部や政府に当たった。軍部は西田が協力してくれるなら喜んで受けようと言った。

矢次は自分の「国策研究会」でも学者や政治家を参加させ、〝大東亜宣言″の内容を研究していた。矢次は秘書の石田磯次(現在電線工業連盟調査部長)を西田家へ送り、石田は、矢次が西田を訪ねたい旨を伝え、西田の同意を求めた。

 

550 西田は協力を承諾し、矢次は1943年3月5日、西田家を訪ねた。

 ところが西田は話を承諾しているのに、ぶっきらぼうに矢次を招き入れ、

 

「近頃の役人や軍人どもはいったい学者を何と心得ておるのか!職人に物でも注文するように、ああの、こうのと指図がましく、無礼な!」

 

と怒鳴りつけた。西田は顔中に青筋を立てて、卓をたたきながら軍部や官僚の戦争指導を罵り、学者を道具に使おうとする不都合さを一気にまくしたてた。

 矢次はあきらめて帰ろうと思ったが、

 

「先生は勘違いしておられる。――」

「馬鹿なことを言うな。」

「先ほどから先生はしきりに軍人や役人を罵倒しておられるが、私は軍人でも役人でもありません。先生の高名はかねてから承っておりますが、まだ一度も先生の書物を読んだこともないのです。今日伺ったのは金井君からの話で来たまでで、先生が嫌だと言われるなら、それまでの話です。しかし、ここに一言申し上げたい点は、先生のお話を伺っていると、学者が時の政府なり、権力者に学問上の協力をすることは、学者として甚だしい堕落であり、恥辱であると考えておられることについてです。――」

 

 それから矢次は政治に協力した学者の例を古今東西に渡ってまくし立てた。すると西田は冷静になり、〝大東亜宣言″草案執筆の件は、行き違いがあったようだからと取消し、先に無遠慮な振る舞いをしたことを詫びた。

 この時の西田の心境の動きについて、矢次は「弟子でない」と言ったことから、「常に弟子ばかりを相手にしていたものの反省が働いたのだろう」と解釈している。しかし私はそうは思わない。矢次の魁偉(かいい、いかつい)な風貌を見て、屈服させられるような印象を受けて、急に気が変わったのかもしれない。いや、それよりも、前に弟子として出入していた田邊の願いを断りかねて一度は承諾したが、後で反省して軍や政府に協力、いや利用されることを拒否するというレジスタンスの決意を固めたと解すべきではないか。

 いずれにしても西田は当時大いに動揺していた。というのは、二日ばかりして西田は矢次に手紙を送っている。

 

「老来とかく短気となり、初対面にもかかわらず種々失礼して全く恥ずかしく思う。もう一度会って話したいから来ていただけないだろうか」(この手紙は矢次が保存していたが、戦災で焼いてしまったという。)

 

 矢次が数日後訪ねていくと、西田はこの前とは別人のように柔らかに、軍部の現状、政界の表裏、戦局の推移から〝大東亜会議″などについて細かな説明を求めた。特に右翼の動向に関しては、非常な関心を示した。矢次は右翼について、

 

「右翼といっても、多くは軍部や憲兵の低俗分子の便衣隊のようなものですが、それだけに要心の必要があります。無学で無資本でももうかる大物暗殺未遂業などというものがあり、これで一、二年入獄すると、りっぱに飯が食えて、妾まで持てる。先生も狙われていますよ」

 

 と言って笑ったら、西田は、笑いもせず、憂鬱な表情で聞いていた。そしてこの日改めて矢次らの申し入れを受け入れ〝大東亜宣言″草案執筆の確約を与えた。

 矢次は西田の心の動揺や突然の変化を、〝哲学者らしいヘソまがり″と見ているが、私は単なる心境の変化ではないと考える。自由と平和を重んじる学者としての生命と、肉体的な生命と、どっちを捨てて、どっちを拾うべきか、窮地に追い込まれたのだと私は見ている。

 軍と密接な関係のある容貌魁偉な男が訪ねてきて、西田の猛反撃にあっても別に驚かず、あっさりと帰って行ったことが、西田に威嚇的な効果を与えたのではないか。西田は魂を売って肉体の保証を求めたのだ。当時、〝西田哲学″や西田個人が〝危険″な状態に置かれていたことを考えれば、これは私の独断ではないと了解されるだろう。

 

552 1942年1月から『中央公論』に、京都学派の高坂正顕、高山岩男、西谷啓治、鈴木成高の座談会が連載され、1943年4月にこれが単行本にまとめられて『世界史的立場と日本』と題して出版された。これと前後して高山の『歴史の推進力と道義的生命』や、高坂の『思想戦の形而上学的根拠』などが出て、京都学派は人気者になったが、同時に右翼学派から一斉攻撃が開始された。攻撃と言ってもただ片言隻句を捉え、悪意の解釈を加えて中傷したにすぎない。西田派のものの考え方は、西洋の文化・思想を根底にした、世界史的・自由主義的立場で、それが純日本的立場と相容れないというのだ。そのため西田派は非国民扱いされ、「筆を取るな」「辞職しろ」から「自決しろ」といった脅迫状まで舞い込んで来た。その間西田は沈黙を守り続けた。

 やがて沈黙を守っていただけではすまなくなった。京都師団の某高級将校が、滋賀県下中等学校配置将校の会合で訓示した時、敵の空襲などによって混乱に陥った場合、竹槍を持って「手当」すべき対象として、朝鮮人、米英の捕虜、京都学派を指示した。この情報を当時京大教育学の教授の故木村素衛の教え子で大津の県庁に勤務していた人が京大にもたらした。また、その前に「京大の某教授が同大学の配属将校に、一番危険な人物は〝京都学派″だとたきつけた」と高山が後に書いている。

 このころ西田博士の身辺が危ないという噂が知識人の間に広まった。西田家の近くに私服の憲兵や刑事らしきものが始終うろついていた。軍の使いのような矢次は、西田にとって暴力の使者と映ったかもしれない。

553 それから2ヵ月後に西田は次のような「世界新秩序の原理」と題する一文を書いた。その要旨は次の通りである。

 

 「真の世界平和は全人類に及ぶものでなければならない。このような平和は、世界史的な使命を自覚した諸国家諸民族が、まず地縁や伝統に基いて特殊な世界つまり共栄圏を形成し、さらに各共栄圏が相協力して真の世界つまり世界的世界を実現することによってもたらされる。これは現代の世界史的課題である。

 大東亜戦争は東亜諸民族がこのような世界史的使命を遂行しようとする聖戦である。歴史が示すように、あくなき米英の帝国主義は、東亜諸民族を長い間足下に蹂躙し、その繁栄を阻止してきた。この米英帝国主義の桎梏を脱し、東亜を東亜諸民族の手に回復する道は、東亜諸民族自らが、共通の敵米英帝国主義の撃滅・根絶を期して結束する以外にない。即ち大東亜戦争を完遂し、東亜を保全し、東亜共栄圏を確立し共栄の楽を共にすることが、現代東亜諸民族の第一の歴史的課題だ。(いつの間にか全人類の平和が東亜だけの平和になってしまっている。また日本の帝国主義は脇に置かれている。)

 今や志を同じくする独伊その他の諸国は、欧州の天地に新秩序を建設すべく勇敢に闘っている。亜欧両州におけるこの二大事業が完成するとき、真の世界平和を招来する世界的世界が実現する。東亜共栄圏を通じて世界的世界の実現に努力することが、東亜諸民族の第二の歴史的課題である。」(米英人民の平和に対する思いやりがない。)

 

 以上が本文でこれに相当長文の解説がついている。

 

 解説には、「皇道を表明する八紘為宇の理念は、世界的世界形成つまり、世界史的世界形成の原理として理解されるべきだ」としているが、これは当時流行した『古事記』の「修理固成」説*と大して違わない。

 

*修理固成(つくりかためなせ)は古事記の初めに出てくる。

諸々の天の神様たちが、イザナキノミコト(伊耶那岐命)とイザナミノミコト(伊耶那美命)に、「このただよっている国土をあるべき姿に整え(修理)、固め(固成)なさい」と命じ、天の沼矛(アメノヌボコ)をお授けになり、お二柱の神が天の浮き橋にお立ちになられて、その沼矛で下界をかき回し、沼矛を引き上げたときに、沼矛の先から滴った潮が、島になり、その島がオノコロ島で、お二人の神様はそこに降り立たれ、日本列島をはじめとした国を生む。

 

この時の天の神様たちからの詔(みことのり)が「修理固成:つくりかためなせ」であった。

 

 田邊からこれを受け取った金井は「期待した大東亜宣言の草案とは少し違うが、その案をつくる連中の指導精神や魂にはなる」と言って、矢次に渡した。矢次はこれを陸海軍大臣、次官、軍務局長、参謀本部や軍令部の首脳部、首相、外相、情報局総裁、書記官長らに配布した。

 

554 それから数ヵ月後に開かれた大東亜会議で採用された大東亜宣言は五箇条からできている。「道義に基づく共存共栄」「経済的発展」「人種的差別撤廃」「資源解放」などであり、西田哲学の影響はほとんど認められない。

 

 

 西田が大東亜宣言の草案を書き上げる前に事件があった。

 西田はこれを死ぬ思いで書いて、やれやれこれで厄介払いしたと思っただろうが、世間はそれを知らないし、実際厄介払いにならなかった。京都学派への圧迫はますます激しくなり、西田家周辺には相変わらず怪しい者の姿が見かけられた。そのうちに三木清が捕まった。長谷川如是閑がやられた。次は某々だというデマがとんだ。西田もいよいよ危ないと噂を聞いた金井は、矢次に相談した。

 矢次は対策を考えた。一夜築地の大和屋で、「黙れ」事件で有名な軍務局長の佐藤賢了少将、情報局総裁天羽英二をはじめ、介添役として下村海南博士、大蔵公望男爵(鉄道官僚・貴族院議員・南満洲鉄道理事)などを招き、その席に西田を連れて来ることにした。秘密のために各国公館並みの扱いを受けていた蒙疆政府東京出張所の自動車に西田を乗せ、途中、金井、田邊も同乗して護衛した。

 矢次が席上西田の身辺に迫っている危険を、蒐集したデータをあげて説明すると、天羽は初耳だと言った。佐藤賢了は、西田の「世界新秩序の原理」に教えられたと礼を述べ、こう言った。

 「先生が逮捕されると言う話はただ今初めて承りました。陸軍に関するかぎり、断じてさようなことは致させませんから、どうぞご安心下さい。」と卓をたたきながら言った。

 西田は黙って頷くだけで、別に礼も言わず、よろしく頼むとも言わなかった。これを見てさすがだと一同は感心した。次いで天羽も博士の安全を保証した。

555 矢次が「先生は芸者がお嫌いですか」と言ったが、その返事よりも前に、一流のキレイどころがドッと座敷へ入ってきた。酒好きの博士はすすめられるままにしきりに盃を重ねた。

 博士の長男外彦氏(神戸製鋼所勤務)は「珍しく酔って帰って来た親爺は、母に、『今夜から寝られるよ』と言っていたのを聞いた覚えがある。翌日から私服らしきものがうろうろするのが見えなくなった。」と語った。

 

 西田の日記によれば以下の通りである。

 

1943年

2月17日、金井の紹介で国策研究会の石田磯次来訪。

3月5日、国策研究会の矢次一夫来訪。(3月の初めの頁に「世界の新秩序と大東亜新秩序」と書かれている)

4月9日、金井章次田邊壽利来訪。

5月9日、田邊壽利来訪。12日、片瀬の会合。

5月12日、田邊来たり、岩本楼に行く。来会者、金森、金井、田邊、石田磯次。(この日大東亜宣言草案に関する最初の打ち合わせが行われたらしい。)

5月19日、国策研究会へ行く。夜東京から自動車で11時過ぎ帰宅。佐藤軍務局長、永井下村海南等。

5月21日、建議書につき田邊来訪。

5月24日、金井、田邊来訪。カマクラ警察署長、特高来訪。(知事の命により)

5月28日、田邊来り、「世界新秩序の原理」原稿渡す。

6月9日、田邊「世界新秩序の原理」20冊持参。(『西田幾多郎全集』別巻一 岩波書店)

 

1954年6月号 秘録実話

 

以上 2020123()

 

 

 

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