敗戦日記より 玉川一郎 1945年11月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988
感想 2020年12月17日(木)
多くの日本人は国際感覚に乏しく、自分自身が政治に関与しなかったから、敗戦の際には鬱屈した批判ばかりをして憂さを晴らしたのではないか。この一文(日記)を読んでそう感じた。編集部注によれば玉川はユーモア作家とのことだが、ユーモアどころか陰鬱な不平・不満の連発である。
メモ
編集部注
敗戦後資源物資が枯渇し、生産力が失われ、インフレが続いたが、「リンゴの唄」などどこかに明るさもあった。これはユーモア作家の日記である。
玉川一郎1905.11.5—1978.10.15 東京外国語学校仏語部卒。作家。ラジオのとんち教室1949--に出演。
本文
698 1945年8月15日の朝、熊谷が空襲された。熊谷市民の多くは(玉音放送を)信じなかった。
午後3時ころ宮城に行く。泣きはらし、脚を引き摺る男女が帰ってくる。人々は土下座したり、佇立(ちょりつ)したり、悲痛の声で「聖寿万歳」を奉唱したりしていた。南京陥落やシンガポール陥落の時の人の波や旗・提灯の海を思い浮かべて、感無量(無念、悔しい)。
8月16日~18日等 朝から海軍機がしきりに飛んできて、戦争続行の意思を表示する、横須賀航空隊や皇軍などの署名があるビラを撒いた。また電柱にも貼布する。「バドリオ*を仆せ」などと書いてある。「皇軍は健在なり。工員諸君よ工場に帰り、作業を継続せよ。」と書いてあるが、工員は動かない。工場の多くは8月15日正午以降操業を停止している。
我が飛行機の乱舞、喧嘩過ぎての棒ちぎれ、六菖十菊の感強し。温存の無意味を語る人多し。
*バドリオ1871.9.28—1956.11.1
1919年、陸軍参謀総長に就任。
1943年7月、ムッソリーニ失脚を主謀し、臨時政府の首相兼外相となる。
1943年9月8日、連合軍総司令官ドワイト・アイゼンハワーが、イタリア側の了承なしにイタリアの無条件降伏を発表すると、ドイツがイタリアに宣戦布告し、幽閉されていたムッソリーニを担ぎ出し、北部にイタリア社会共和国を樹立した。
1943年10月13日、バドリオはドイツに宣戦した。
1944年6月、連合軍がローマを占領したとき、バドリオはローマに戻ったが、夜逃げ同然に首都を放棄したことで国民の支持を失っていたため、首相の座をイヴァノエ・ボノーミに譲り、政界を引退した。
8月15日から「日本人として恥ずべき」掠奪同然の、官公署・軍需会社の物資分け取りが始まった。砂糖1貫目、メリケン粉3貫目、水飴石油缶に1缶、そして缶詰・乾パンは当然のように、各人に分配されている。鶴見では海軍部隊が通行人に食用油をただ同然に与えたという。トラックで持ってくるらしい。鎌倉方面では、海軍将校が白米1俵を1600円の闇値で売っているらしい。
部隊により、服装1式と毛布1枚のところもあるが、背負いきれず、米を捨てる場合もあるらしい。それらは皆、国民に帰すべきものだ。
700 軍は情況において同情すべきとしても、官公署・軍需会社は言語道断だ。百姓はこれを見て、もう供出はやめた、と怒ったという。末端の官吏が言った。「戦争中は生産の隘路(ネック)となり、敗戦後は盗賊となるおまえらを、今後はあらゆる方法で筆誅を加えてやるぞ」と。
女子駅務員の姿が次第に少なくなった。これだけは敗戦による朗報だ。女子役務員は、戦う生産人に、朝から不快感を与えた筆頭だった。将来その履歴書に駅務員の経歴のある女子には一切の便宜や好意を示すまいと私は決意した。同感者多数。(どういうことなのか。威張っていたということか。)
8月17日、私に対する軍需監理部の採用通知の顛末
4月中旬、履歴書提出
5月末、催促
6月29日、発令
7月24日、附の辞令
8月12日、附の速達
8月17日、入手
これでは戦争に勝てるわけがない。もちろん私は出頭しない。(人事の仕事がのろいということか。)
9月4日、疎開先の掛川の在で、農村学童らは親の意志を反映するのか、疎開児童に「早く帰れ」等の悪口を言い、残忍な私刑を加えるとのことだ。農業会の者たちも、米の配給等で「これからは疎開者も自作自給で行くだ」と放言する。田舎者の頑迷不霊は言語に絶する。戦災に遭遇することもなく、ただ自分の分け前を削られたように考える無知は、今後重大な問題をもたらすと思う。自作自給するための土地があれば、彼らごときに叩頭する必要はない。農民はヤミ値でなければ物資を出さない。ヤミ値で売りながら、買う側を暗に罵り、わずかに自己の良心?の呵責を糊塗しようとする心理は唾棄すべきだ。土地の再分配が考慮されるのももっともだ。
軍需会社による物資の不当分配 工員たちには僅かしか与えないのに、事務員以上には莫大な量を与える。
末の妹が中島製作所でもらった物は次の通りだ。
電球10個、鉛筆10ダース、蒲団皮3枚、下駄3足、鼻緒5本、戦闘帽2つ、ゲートル1足、靴下2足、軍手2足、焜炉・土瓶各1個、蜂蜜3合、酢1升、竹フォーク半ダース、アルミフォーク半ダース、藁半紙多数、インク大瓶1個、砂糖・メリケン粉少々。
退職金460円
以上が本給60円で、僅か1ヶ月間勤務の女子事務員に与えた、国民からの掠奪品だ。
701 教育部の清水君が復員して帰社した。清水君「特攻斬り込み隊として川越で待機していたが、銃がなく竹槍だった。ゴボウ剣(銃剣)も人数分なく、外出の時は無帯剣証明を持たされた。飯盒もなく、竹を割ったもので飯を食べた。聯隊長は、「武器は敵から分捕る」と言った。
東條元首相が自決し損なうと、非難が起こった。
イ、しくじってはまずいと思って切腹せず短銃を用いたが、それでも失敗した。
ロ、そのピストルは米飛行士からの鹵獲品で、玩具に等しいものであった。(米紙報道)
ハ、米憲兵が(東條家に)やって来るまでは、「法廷で所信を述べるつもりだから、幾度か自決を奨められたが、退けていた」と言っておきながら、卑怯にも自決の真似をした。
ニ、女房子供を、離婚または分家して、後顧の患いを除いていたこと。
ホ、米兵から輸血された。
ト、食欲旺盛。缶詰の果実を要求。
チ、米軍医中将にお礼として陣太刀を贈呈。
東條が首相の頃、官邸の台所の調理台に、飴玉の材料である、砂糖で作った巨大な黄色の塊があったという。当時、砂糖はすでに配給制で、街には甘味が途絶え始めたころだった。
702 8月28日、厚木に米軍が始めて進駐した。新聞記者によれば、米軍の飛行機のエンジンは、日本の飛行機とは違って、油漏れがなかったという。
1944年1月、海軍報道部員T中佐と会食したとき、中佐曰く。「工場で使われる米軍の捕虜は非常に能率がよく、手順がいい。彼らの日記に『日本人労働者はだらだら動き、機械を理解せず、いたずらに機械を酷使する。勝利は我らにありと固く信ずる』とあった。この間の観兵式で代々木上空を750機の陸軍機が飛ばされたが、陸軍の守っているラバウルには、陸軍の航空基地は一つもなく、海軍航空隊に助けられている。あの飛行機をラバウルに送れば良いが、現在の技量では三分の一が着けば良いほうだ。」
田舎の青少年で復員くずれが、一番気風が悪い。「今はぶらぶらしているだ。」と言って、頭髪を伸ばし始め、煙草だけは一人前の手つきで喫ってみせる。
9月下旬、元大蔵省跡に二台のブルドーザーが現れた。たちまち平地にして翌日は天幕を張った。これを昨日まで応徴士らしいカーキ色のボロ服にゲートル、カバンを提げた男が多数いつまでも馬鹿面している。私はこれを見て、ジャワのバンドンの広場で、高射砲の操縦をしている兵を現地の人が弁当もちで一日中見ていたのを連想した。このような人々が国民酒場で一番口やかましく国事を論じ、在営中は初年兵を殴り、くだらぬ刑罰を工夫し、戦災に遭えば右往左往し長期欠勤し、暇を無理に作って買出しやヤミをする。そして東條の笛に踊りながら、一番口やかましく、産業戦士などと命名され、そのつもりになって上せている。こいつらがインフレに仆れ、正気づいて閉口頓首した時、初めて再教育すべきだ。
戦争中、米国の新聞紙上に黒竜会のことが載ったと外電で知ったが、疑問に思った。黒竜会は内田良平が作ったらしいが、我々インテリは右翼暴力団に興味がなかった。この際、彼らを摘発し、永久に撲滅することを望む。(自分自らが撲滅すべきではないのか。)
703 敗戦直後、頭山満の倅に放送をさせた。放送局は戸惑っていたのだが、滑稽だ。「国士」頭山に正業はあったのか。彼についての記憶は、小料理屋や待合にギャング避けの額を書いたくらいしか私の脳裏にない。明治大正昭和の多くの青年が彼らによって道を踏み間違えさせられた。頭が悪いのに豪傑のジェスチャーでカムフォラージュした馬鹿どもに国を誤られたのだ。
米兵は将校に会っても敬礼しなくていいが、日本兵が欠礼すれば公衆の面前で殴打される。敗ければ掠奪をやり、脱営逃亡する。兵隊生活を謳歌したという人の話を聞いたことがない。無知と傲慢の塊のような田舎の土百姓と職工上がりが、一日半日の年功?を嵩(かさ)に威張り散らす。それを厳たる皇軍の秩序と称す。
(流行歌手の)霧島昇は、変質的海軍軍人の玩弄物になった。霧島は乱視2度で、右眼はほとんど失明に近かったが、横須賀海兵団副長のI中佐は、霧島のファンで、体格検査もいい加減にして彼を水兵にして副長附とし、「愛染かつら」を歌わせ、また自作の歌詞を軍楽隊に作曲させたものを霧島に歌わせた。しかも朝の3時頃従兵に呼ばれて(霧島が)行って見ると、夜中に自分が作った歌を歌ってみてくれという。臨終のとき「雪の進軍」を聴きながら瞑目したという大山元帥の話と大きな隔たりだ。
海軍報道部の腐敗は外部の誘惑が大きいが、それに乗った海軍も浮ついている。1944年10月頃から憲兵隊が米山嘱託と石川兵曹の事件を暴いた。アル中で半馬鹿の米山が、活動屋丸出しでフィルムを密売し、日映に対して腐れ果てた温情を示し、石川兵曹が海軍報道部名で買い上げた食料品をヤミで売った。
インパール作戦が失敗し、(それに参加した)古関裕而*と火野葦平*が帰還した。
火野葦平談「インパールが駄目になったときシンガポールに来たボースが寺内に会ったが、そのとき寺内がボースに、『東條なんかの言うことを真に受けているからそんな(日本の戦力の現実)ことになる』と言ったところ、ボースはびっくりしたそうだ。」
*古関裕而1909.8.11—1989.8.18 1944年4月、古関は作家の火野葦平や洋画家の向井潤吉と共に特別報道班員に選ばれ、インパール作戦が行われているビルマに派遣された。古関のクラシックと融合した作品は、哀愁を帯びた切ない旋律のもの(「愛国の花」「暁に祈る」など)が多かったが、それが戦争で傷ついた大衆の心の奥底に響き、支持された。古関自身、前線での悲惨な体験や目撃が「暁に祈る」や「露営の歌」に結びついたと証言している。
1989年8月18日、古関は脳梗塞で死亡したが、その秋ごろ国民栄誉賞の授与が遺族に打診されたが、遺族は辞退した。
*火野葦平1907.1.25—1960.1.24 早稲田大学英文科に進学した。1928年、レーニンの訳書を持っていて、軍隊を降格除隊された後、労働組合を組織したが、1932年、検挙されて転向した。
1937年、日中戦争に応召し、その後報道部へ転属し、軍部との連携を深めた。戦地から送られた1938年の『麦と兵隊』は、徐州会戦での兵隊の人間性を描いた。英訳もされ、パール・バックに賞賛された。戦時中は兵隊作家と言われ、1939年、中野実らと「文化報国会」を結成して、従軍作家として戦争に協力した。
戦後は公職追放1948--1950された後、文筆活動を再開し、自らの戦争責任に言及した『革命前後』など多数の作品を書いたが、1960年1月24日、安保発効の5日後、自殺をした。53歳だった。このことが遺族によりマスコミを通じて公表されたのは1972年3月1日の13回忌の時だった。
妹の息子がペシャワール会の医師中村哲である。
704 フィリピン、ジャワ、スマトラ、マレー、ビルマ、インド(タイは除外)の諸民族に日本民族は心から陳謝すべきではないだろうか。
一億の整理のつかない成り上がり者が、10億の指導者に何でなれよう。思いあがりだ。(為政者は民衆に)かわいそうな夢を与え、そして潰した。
東部軍(東日本を管轄)のラジオ情報の発表が現実より遅れることが多かった。当時東部軍附のAK*の長浜君に聞いたところ、東部軍の参謀の一人が原稿の検閲に際し、自分の手がふさがっていると、5分も待たせたそうだ。だから投弾後に注意したり、高射砲をたくさん撃った後で、これから高射砲を撃つからと注意したりした。
1942年頃、赤坂高樹町の鉄道次官邸には毎日全国から小荷物が届く。送迎の自動車が来るが、空車で来たことがない。次官氏は毎晩酔いつぶれて帰宅した。
8月13日 静岡新聞
老農夫の歌
一、孫の二人は戦争で死んだ
わしは馬鹿から瞞されました
負けて今さら愚痴ではないが
鍬を持つ手に力が入らぬ
二、白い手をした役人様が
ソロバン弾いて勘定しても
野良の仕事はお天気様の
機嫌一つで雨風あらし
たんととりたいさつまも稲も
今年どうやら悪出来だ
三、内閣変わり選挙だ闇だ
何が何やらわしゃわからんが
たった一つのお願いごとは
わしが作った今年の米を
しぼりとらずに幾分なりと
のこし下されオエライ方よ
四、国の同胞(なかま)が餓えると聞けば、
米の供出渋りはせぬが
孫を騙して命を奪って
金を儲けた憎い野郎の
くらう米ならわしゃ出すものか
五、よくもこれまでおいらの汗と
涙で納めた貴い米を
うぬらばかりがたらふく食って
島の兵士を飢え死にさせた
六、どうじゃ県下の百姓衆よ
おらが県ではオエライ方に
エライ頭をひねってもらい
も少し仕事にはげめるように
やってもらわず なァ皆の衆
(立花史郎寄)
1945年11月号
以上 2020年12月19日(土)
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